食の未来が見えるウェブマガジン

【保存版】日本のフランス料理の歴史(最終回)1980年代〜90年代 


シェフたちがしのぎを削り日本のフランス料理は飛躍を遂げた

豪華なシャンデリアや絨緞。それは華やかな80年代ガストロノミーの象徴であった。
しかし、90年代になるとバブル経済の崩壊によって、フランス料理は「冬の時代」を迎える。
高級レストランが淘汰され、ビストロやカフェに人気が移ったかに見えた。そんな時代を乗り越えさせたのは、ほかでもないフランス料理を愛するシェフたち、ひとりひとりの情熱と進化への欲求だった。

街場のレストランが力をつけシェフの個性が店の成功を決めた

 幾度かの大きな転換期を迎えつつ、進化を続けてきた日本のフランス料理界。ことに80年代は、特別な意味を持つ時期といわれる。60年代後半から70年代にかけて、フランスで修業した人々が次々に帰国。本場の味を伝えるべく、街場にレストランをオープンさせ、腕をふるった。店内は常に活気づき、予約の取れない店も出現した。自らオーナーシェフとなって店を切り盛りする料理人も増えた。この時代、フランス料理のステージは、ホテルの厨房から街場のレストランへと移行していったのだ。

シェフたちの団結力でフレンチブームを

 80年代初頭、「本場で修業を積んだ」という金看板は、まもなくバブル期を迎えようとしている時代の、沸き立つような消費ムードと合致する。フランス帰りの「三羽ガラス」と称された石鍋裕さん、井上旭さん、鎌田昭雄さんは突出した存在感を示した。石鍋さんは、1982年、西麻布に「クイーン・アリス」を開店。その2年後、井上さんは京橋に「シェ・イノ」を開いた。後に新しいスタイルの料理番組として話題を集める「料理の鉄人」で、フレンチの鉄人に抜擢された坂井宏行さんが、南青山に「ラ・ロシェル」をオープンしたのは、彼らより少し早い、1980年のことだった。三羽ガラスのもうひとり鎌田さんは、年から六本木の「オー・シュヴァル・ブラン」の総料理長として力を発揮。その功績を認められて、年に「ホテル西洋銀座」の総料理長に迎えられた。

シェ・イノ「仔羊のパイ包み焼きマリア・カラス」。棒状に切ったトリュフとフォワグラを仔羊の肉で巻いて焼き上げた贅沢なひと皿。
photo by Yuta Fukitsuka

 このほか、平松宏之さんが、石鍋さんの「クイーン・アリス」開業と同じ時期に「ひらまつ亭」をオープン。故高橋徳男さんが初代料理長を勤めた「アピシウス」のほか、今では老舗となった「コート・ドール」や「カーエム」などが誕生するのも、80年代のことだ。

 オーナーシェフたちは、自分の店だけでなく、街場のレストラン全体の繁栄を強く望んでいたため、仕事の合間を縫っては厨房を出て、他の店のシェフたちと交流を深めた。その象徴が、80年に結成された「クラブ・デ・トラント」である。「トラント」とは「30」の意味で、志を抱いて海外で修業を重ねた30代のシェフたちで結成されたクラブだった。若手シェフたちが集まって、料理の研究や講習会、情報交換などを行ったのだ。さらに後輩たちの育成を望んだこの会には、高橋さんを会長に三羽ガラスも名を連ね、会員数は年を経るごとに増えていった。

「日本に本物のフランス料理を伝えなければ……」。フランスの星付きレストランで働き、日本との差に愕然としたシェフたちには、強い使命感が宿っていた。その志は、80年代のひとつの大きなうねりとなって、フランス料理史に、足跡を残すこととなった。

日本のフランス料理発展のためにシェフたちが組織した「クラブ・デ・トラント」は、さまざまなイベントを企画。高橋徳男さん、石鍋裕さん、坂井宏行さん、北岡尚信さんなど、錚々たるシェフが顔を揃え、豪華客船「ぱしふぃっく びいなす」でフランス料理の饗宴が開かれたこともあった。
写真提供: 北岡尚信さん

有楽町のレストランで開かれたビッグシェフによる饗宴

 成長する日本のフランス料理界。その昂揚感に拍車をかけるような出来事が起きたのは、1986年、11月のことだった。ジョエル・ロブション氏が、「アピシウス」で、料理の披露会を開催したのだ。 「街場のレストランで自らの料理を披露してみたいが、ふさわしいレストランはないか」
それは、ロブション氏が、料理評論の第一人者として活躍していた山本益博さんに相談を持ちかけたことに始まる。1976年の初来日以来、ロブション氏はホテルでは幾度となくディナーを手がけてきた。しかし、大人数を前に「ショー」をするのではなく、落ち着いた場所で調理をしたいと望んだのだった。

 名店「アピシウス」がよいと判断した山本さんは、さっそく高橋料理長に事情を話すが、「あのロブションさんが、うちでそんなことをするわけがない」となかなか信じてもらえず、説得に苦労したと言う。ジョエル・ロブション氏は1973年、28歳でコンコルド・ラファイエットホテルの総料理長に抜擢され、36歳の年に「ジャマン」で独立。翌年には一ツ星をとり、その翌年からひとつずつ星を上げ、3年で三ツ星をとったことから「天才」と騒がれた。高橋さんが、「信じられない」と躊躇したのも仕方のないことだった。 

「トマト 毛ガニと共にミルフィーユ仕立て 酸味の効いたクーリで」。日本やヨーロッパ各地からの旬の食材をふんだんに盛り込んだ「ジョエル・ロブション」のスペシャリテのひと品。

これをきっかけに88年、「アピシウス」で、後々まで語り継がれる伝説のディナーが開かれた。それはジョエル・ロブション氏とアラン・シャペル氏という2大ビックシェフの競演で、トリュフをふんだんに使い、ふたりのシェフが交互に料理を仕上げていくというものだった。このトリュフディナーの参加費は、当時としては破格の5万円。男性はブラックタイ、女性はカクテルドレスというドレスコード指定の催しだった。常識では考えつかないほどのこの祭典を若手にも実体験してもらおう、と高橋さんは、平松宏之さんや河野透さんなどを厨房に迎えた。

 ロブション氏同様、世界のトップシェフのひとりシャペル氏は、すでに日本との縁を結んでおり、81年には神戸ポートピアホテル内に、「アラン・シャペル」をオープンさせていた。もちろん、これもまたセンセーショナルなニュースとして話題をさらった。すでに大御所だったポール・ボキューズなどがコンサルティングをしている店は以前からあったものの、シャペル氏のように現役で活躍する三ツ星店のシェフが、その名前を冠した店のオープンを許可するのは初めてだったからである。

宮崎県川南港シイラと野菜のクレピネット赤パプリカソース
河野シェフの料理は、素材に合ったソースが添えられているのが特徴。シイラの上品で淡白な味わいを、赤パプリカや玉ネギ、トマトなどの旨味が凝縮されたソースが引き立てる。
photo by Toshihiro Ohno

バブル景気の中日本初のオーベルジュ誕生

 80年代半ば、日本はバブル経済期に突入。まるでフランスの星付きレストランのように豪華な内装の店や、洒落た雰囲気のレストランに足を運ぶことが、トレンドになっていた。また、「クイーン・アリス」を多店舗展開する石鍋裕さんや、「オテル・ドゥ・ミクニ」を経営する三國清三さんなど、スターシェフが誕生。女性向けのファッション誌から取材依頼が殺到した。厨房では見られない彼らの魅力的な素顔が誌面に掲載されると、レストランは連日満席になり、日本におけるフランス料理は全盛期を迎えたかに見えた。

 この絶頂期の立役者として欠かせない人物がもうひとり、それが現在、箱根で「オー・ミラドー」を経営する勝又登さんだ。日本にヌーベル・キュイジーヌの店が増えたとはいえ、勝又さんの目には、どの店の皿も都会の画一的な料理に映った。フランス料理の世界はもっと幅広いのに。勝又さんはフランスの「オーベルジュ」を夢見た。日本にはそれを実現させているシェフはいなかった。そこで1986年、勝又さんは日本のオーベルジュの第1号となる「オー・ミラドー」を箱根に開いた。

 勝又さんはパリやニースで修業、73年に開いた「ビストロ・ド・ラ・シテ」でビストロ・ブームを巻き起こしていた。このシェフのいる箱根に、食通たちは車を飛ばして訪れた。
 箱根で作られた野菜や、近海で水揚げされる地の海産物を使った料理は、今や日本各地で展開されているテロワールのさきがけとなった。

イタリアンブームに低迷するフレンチの世界

 良い意味で群雄割拠の時代に突入した東京フレンチだったが、90年代になるとその勢いはトーンダウンした。最大の要因は、91年のバブル崩壊だった。苦しむフランス料理界にとって代わるかのように、イタリアンブーム、ついでエスニックブームがやってきた。

 フランス料理は値段も高く、高カロリーで、雰囲気も堅苦しい、などと敬遠する客も出始めた。これに対してイタリア料理は、値段も安くカジュアルで親しみやすい。フランス料理に比して、調理に使うバターやクリームも少ないため健康的だと喧伝され、追い風を受けて多くのイタリア料理店が誕生する。
 バブルの崩壊を機に、フランス料理は「冬の時代」に突入。フランス料理史では、90年代を総称して「失われた10年」とも呼んでいる。

 しかし、こうした逆風をポジティブに受けとめて、むしろ追い風に変えたシェフ、それが平松宏之さんだった。平松さんは、1982年に東京の西麻布に「ひらまつ亭」を開店。以来、「レストランひらまつ」をはじめ、数々の店舗を展開、「ひらまつグループ」の総裁となって躍進を続けることになる。

 冷静に「冬の時代」を分析した結果、平松さんは93年にオープンカフェを開いた。日本のフランス料理界は、大半がガストロノミーを目指すという偏った構造に陥っていた。それがフランス料理の行き詰まりの要因でもあると考えた平松さんは、パリのエスプリが効いたカフェのオープンを発案する。パリの街角にあるようなカフェの開業が増えれば、フランス料理を底辺から定着させていくことができる、と考えたのだ。平松さんの予想は見事に的中した。オープン後、平松さんのカフェには全国から見学者が訪れた。わずか1年の間に、オープンカフェは、全国で約50店舗を数えるまでになったのだ。

 平松さんの挑戦には、まだ先があった。フランスの外食文化を日本に定着させるには、カフェだけでなくビストロももっと普及させる必要があると考えたのだ。しかも、これにはすでに成功例が存在していた。前述の勝又さんが「オー・ミラドー」を成功させる以前、73年に西麻布に開いた「ビストロ・ド・ラ・シテ」がそれだった。この店では、魚のグリエやラタトゥイユ、ムール貝など、当時としては珍しいフランスのビストロの味を提供して成功したのだ。

 多くの料理人たちは三ツ星や二ツ星店での修業を望んだが、勝又さんは「庶民の食べ物に触れたい」と、ビストロ経験も積んでいたのだった。「誰でも成功する時代は好きではない」との言葉どおり、平松さんにとってバブル崩壊後の低迷期は、むしろビジネスチャンス到来と映った。高級レストランに比べ、ビストロなら少ない資金で開業できる。若い料理人たちはビストロに注目し、カジュアルな雰囲気が時代にマッチして、繁盛店も登場した。

フランスの名立たる料理人に芽生えた日本への関心

 90年代、フランスの料理界はどうだったかというと、ロブション氏に続いて、気鋭のシェフたちが、次々と三ツ星を獲得していた。
 90年、デュカス氏は最年少で三ツ星シェフになった。天才の名をほしいままにしたが、シェフを務めていた「ルイ・キャーンズ」が三ツ星に選ばれたとの知らせを受け、「シェフルームで泣いていました」と、証言するのは、現在、「アピシウス」で支配人を務める永井利幸さん。当時、永井さんはホテルオークラに勤務しており、デュカス氏が吉報を受け取った場所がオークラのシェフルームだった。さらに97年、デュカス氏は、パリの高級ホテル「アテネ・プラザ」内のレストラン「アラン・デュカス」をも三ツ星に育てた。

フォワグラとジエビのコンフィサラダとトリュフのヴィネグレット
© Pierre Monetta

 このほか、「水のフレンチ」を提案して、フランス料理の世界に新たな潮流を巻き起こしたベルナール・ロワゾー氏が、念願の三ツ星を獲得したのは91年のこと。そして、翌年にはピエール・ガニェール氏が三ツ星を獲得。ガニェール氏は、その後、負債のために店を閉めることを余儀なくされたが、後に復帰して、98年には三ツ星に返り咲いた。

 90年代になると、こうしたシェフたちが日本を訪れては、趣向を凝らしたフェアを開催。また東京では自らの名前を冠したレストランの出店計画が進み、94年の「シャトーレストラン・タイユバン・ロブション」のオープンを皮切りに、2000年初頭オープンの「ベージュ・アラン・デュカス「」ピエール・ガニェール・ア・東京」「キュイジーヌ〔s〕ミッシェル・トロワグロ」へとつながっていくのだった。

歴史と伝統を守りながらも新境地を拓くトロワグロの料理は、常に注目されている。写真は「根セロリのニョケッティとサーディンの軽い燻製」。

 こうした店では、優秀な日本の料理人をシェフに据えた。「シャトーレストラン・タイユバン・ロブション」で初代日本人シェフを務めた河野透さんは、「毎日、緊張の連続でしたが、ロブション氏の中で、ひとつの料理がどのような段階を経て構築されていくかが間近で見られ、それが非常に勉強になりました」と語る。

 一方、日本から海外へ積極的に出ていったのが、三國清三さんだった。「オテル・ドゥ・ミクニ」で成功を収めてのち、三國さんはパリはもちろん、ニューヨークやロンドン、シンガポール、シドニーなどで「ミクニフェスティバル」を開いている。海外で披露するのは「ミクニ料理」。修業時代、トロワグロ兄弟やアラン・シャペル氏のもとで学んだフレンチの技法を駆使して、日本人のアイデンティティである美意識を表現した「ミクニ料理」は、各国で賛辞を得た。「星をつかむこと」を目的としてパリ出店を決めたシェフもいた。現在、「タテルヨシノ」を展開する吉野建さんは、年、小田原で経営していた「ステラマリス」でパリ8区に進出した。フランス人が得意とするジビエで堂々と勝負に挑み、2000年にはすぐれた野ウサギ料理に与えられる「リエーブル・ア・ラ・ロワイヤル」最優秀賞を獲得。そして、
06年には一ツ星を手に入れた。吉野さんはその後も海外で活躍を続け、07年のダボス国際会議では料理長を務めて好評を博したのだった。

テット・ド・コション
最初は、パリの食通の知人に頼まれて作った料理だが、これによってパリの「ステラマリス」が一躍有名になったという吉野シェフのスペシャリテだ。豚の頭部の肉や鳥のトサカなどを煮込み、さらにアーティチョークやアンディーブ、オリーブなどで煮込んで仕上げる。トリュフの香りで仕上げ、最後に卵のフライをのせる。
photo by Toshihiro Ohno

異国情緒溢れる街に根付いた都市型オーベルジュ

 神戸でも新たな動きがあった。92年、ベルナール・ロワゾー氏は、神戸ベイシェラトンホテル内に、「ラ・コート・ドール」の支店を初めて開く。ここで料理を任されたのが、現在の「神戸北野ホテル」総料理長の山口浩さんだ。ロワゾー氏の料理には、「理論に基づく普遍性がある」と判断した山口さんは、その発想と技を体得すべく、ロワゾー氏のもとで修業と研鑽を重ねていた。クリームやバターを排除して素材の味を引き出すロワゾー氏の「水の料理」は、フランス料理の短所ともいえる「重さ」を解消。軽くて透明感のある料理は、魅了し、フランス料理の概念を変えようとしていた。しかし、95年に起きた阪神淡路大震災の影響から「ラ・コート・ドール」は閉店を余儀なくされる。

 山口さんが試練を乗り越え、やはり震災によって閉館していた「神戸北野ホテル」の中に「フレンチレストラン・アッシュ」をオープンするのは、2000年のことだ。このホテルで、山口さんがコンセプトとしたのは「都市型オーベルジュ」である。その世界には、師であるロワゾー氏の思いやテクニックだけでなく、日本で最初にオーベルジュを開いた勝又シェフの遺伝子が息づいているともいわれる。

フランス料理のひと皿は伝統を重んじつつ、進化を恐れない料理人たちの挑戦の歴史が宿る

 百花繚乱の80年代と、「冬の時代」90年代。ふたつの時代は激変を表しているかに見える。しかし、実は深く関係していて、高級レストランが花開いた時代と、カフェやビストロへと裾野を広げた時代、どちらが欠けても、今日のようなフレンチの発展はなかったといわれる。そして、これらをリードし続けたのが、石鍋さんや平松さんに代表される時代の寵児たちである。彼らは、「街場のレストランに本格フレンチを」と海を渡り、我を忘れて修業し、「日本人の真面目さと繊細さ」「文化への理解力の深さ」を証明した。後に続く後輩たちの未来にレールを敷いたのである。石鍋さんは言う。「若い人たちには、もっと挑戦して新しい世界を拓いてほしい」と――。言葉通り、応援も続けてきた。
 21世紀になると、先輩たちの努力によって切り拓かれたこの道を、よりグローバルな視野をもつ日本人シェフたちが進んでいくことになる。努力と挑戦を怠らない彼らの中からは、世界で注目を浴びるタフなシェフたちが登場することになるのだ。


上村久留美=取材、文 星野泰孝、大野利洋、依田佳子=撮影

本記事は雑誌料理王国第228号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第228号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


SNSでフォローする