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【保存版】日本のフランス料理の歴史 #1 先駆者たちは本物の味を目指した


日本のフランス料理が歩んできた道

フランス料理の王と呼ばれるオーギュスト・エスコフィエ。 1910(明治43)年、パリの「ホテル・リッツ」の厨房で、圧倒的な存在感をかもしだす60代の王のかたわらで働く22歳の日本人がいたーー。のちに「天皇の料理番」と呼ばれる秋山徳蔵である。このスーパーシェフから紐解くフランス料理100年の足跡は、明治、大正、昭和、そして戦後の高度成長期へと、時代に呼応しながら大胆に進化していく。

天皇の料理番誕生から帝国ホテル新館オープンまで

大正期のフランス料理を牽引した偉大な先達


 エスコフィエから直々に本場のフランス料理を学んだ秋山徳蔵は、1912(明治45)年、マルセイユ港を発って帰国の途についた。翌13年3月、25歳で宮内省大膳寮に就職。1917(大正6)年に初代の宮内省主厨長に任命された。以後、1972(昭和47)年まで、秋山は半世紀にわたり「天皇の料理番」として日本のフランス料理界の頂点に君臨し続けた。

 1923 (大正12)年には、1600ページにおよぶ大著『仏蘭西料理全書』を刊行。この本はエスコフィエの『ギッド・キュリネール(料理の手引き)』に基づいたもので、日本にエスコフィエの料理の全貌を伝えた大作である。実践、理論の両面から秋山徳蔵は、大正期のフランス料理を牽引した偉大な先達であった。そして、その太い幹は、現在へと脈々と受け継がれている。 

元祖グラン・シェフは長崎から大阪に出た草野大吉


 幕末から明治にかけて、秋山徳蔵の大先輩といえる元祖グラン・シェフがいた。幕末の動乱の最中だった1863(文久3)年、長崎郊外に西洋料理店「良林亭」を開いた草野丈吉である。

 オランダ総領事のもとやオランダ軍艦で西洋料理を修得し、その後、島津藩に料理人として雇われていたが、生家を開業してレストラン「良林亭」を開いた。評判のこの店は、「自由亭」と改められ、明治維新を迎える。草野丈吉は政治家で実業家の後藤象二郎にその腕を見込まれ、大阪の川口居留地に付設された外人止宿所の司長に招聘される。その後、大阪初の本格的ホテル「自由亭ホテル」を開業。アメリカ大統領グラント将軍やイタリア、ロシアの皇族の料理を担当したと伝わる。草野丈吉は、明治初期の関西の西洋料理の草創期に大きな足跡を残すことになった。

フランス料理は香りだ。材料の香り、補助味の香り、調味料の香り、そういったものが、渾然となって、味および色彩とともに一つの交響楽をつくりあげる。これがフランス料理の芸術たるゆえんだーー 

秋山徳蔵『味と舌』

正餐はフランス料理に上野精養軒オープン


 明治天皇自らが肉食を宣言したのは1872(明治5)年だった。イギリス王室に習い、宮中においての国賓やVIPを招く際の正餐はフランス料理となった。
「家屋はすべて西洋造り、入り口には美麗なる西洋風の飾り付け、(略)不忍池を眼下に見下ろし誠に絶景なり」(朝野新聞)と記された「上野精養軒」は、4年後の明治9年、上野公園の閑静な猫塚と呼ばれる一画に開業した。政治家や高級官僚、実業家はもちろん、夏目漱石や森鴎外も贔屓にし、東京を代表するフランス料理店となった。以後130年余にわたり、「ハレの日のレストラン」として愛され続けている。

 宮内省主厨長の秋山徳蔵は、上野精養軒の厨房を訪れ、優秀な料理人を選抜して、皇室関係の宴会料理を調理させていたといわれる。

「何日もかけて、ブイヨンをとるダブルコンソメも、デミグラスソースも、当時から受け継がれてきた調理がベースになっています」とメインダイニングのグリルフクシマの料理長・田村喜一郎さんは言う。副支配人の金谷和宏さんは「サービスも味も伝統を大切に」と話す。上野精養軒には、明治時代に生まれた本格フランス料理のエッセンスがぜいたくな空間とともに息づいている。 

佛蘭西料理 黎明の宴

政財界人の支援を受けて誕生した築地精養軒


 福井県から上京した16歳の秋山徳蔵は、麹町区内幸町の「華族会館」の調理部に就職し、コック修業のスタートをきった。その翌年、徳蔵は「築地精養軒」へ移る。

 この店は、上野精養軒の本店にあたり、1872(明治5)年に、「精養軒ホテル」の名でオープンした。この年には、新橋―横浜間の鉄道駅「新橋停車場」が完成。近代化に向けて急激にかじを切った新都・東京が、世界の近代都市と肩を並べる都会となるためにも、本格的な西洋料理の専門店は急務であった。

 築地精養軒の創始者の北村重威は、幕末の動乱期に岩倉具視に出会い、側用人になった。新政府は東京に移ったが、外国の高官をもてなすところがない。北村は外国人が経営するレストランに劣らぬ店が早急に必要と考え、政財界の支援をえて築地精養軒(精養軒ホテル)を誕生させた。パリ仕込みの外国人のシェフを招いた築地精養軒は、秋山徳蔵をはじめ、草創期の日本のシェフたちの修業の場として大きな役割を果たした。しかし、築地精養軒は1923(大正12)年の関東大震災で全焼。以後、上野精養軒が本店となり、エスコフィエからつながるフランス料理の味を今に受け継ぐこととなった。

明治中期には、鹿鳴館が完成日本人シェフが活躍した


 精養軒をはじめ、外国人の経営するホテルやレストランで日本人がフランス料理を学んでいた明治中期、横浜では恩正長三郎が「横浜オリエンタルホテル」の日本人料理長として働いていた。

 また、1883(明治)年には鹿鳴館が開館。藤田源吉、渡辺謙吉など日本人シェフが活躍する。渡辺謙吉は英語、フランス語も堪能だった。20世紀に入り、1906(明治30)年には伊藤博文らの勧めで実業家の伊藤耕之進が三田に「東洋軒」を開業。秋山徳蔵はフランスへ旅立つ前、ここで修業をしている。

 そして1913(大正2)年――。
 エスコフィエのもとで修業に励んだ秋山徳蔵が帰国、宮内省大膳寮に就職したのである。

 この年に英国生地の輸入商で香港、シンガポールと飛び回っていた竹山周吉が、フランス帰りの本格的なシェフを招いて東京市市谷台町に洋食店「台町食堂」を開く。当時、「食堂」はハイカラな新しいスタイルのシンボルだった。周吉の息子の正次は、秋山徳蔵の薫陶も得た。精養軒や万平ホテルでも修業をした。太平洋戦争のあと、正次は店をいまの墨田区吾妻橋に移し、「レストラン吾妻」とした。

1913年 秋山徳蔵、フランスから帰国。4年後、宮内省大膳寮の初代主厨長に就任。

日本の洋食史の正統を守るレストラン吾妻

レストラン吾妻 黒毛和牛三枚肉のビーフシチュー

「料理は将棋だぞ。一手、一手を大事にしろ」天皇の料理人の弟子だった父の言葉は、かけがえのない財産です 

レストラン吾妻 店主・竹山正昭


 この老舗のレストラン吾妻は、現在三代目の竹山正昭さんがその厨房を守る。日本の洋食史の正統を継ぐ名店は、故中村勘三郎、伊集院静など多くの食通をうならせる。

「デミグラスソースは、親父の代のものをベースにしています。ゆるぎない日本の洋食を守り続けていきたいと思います」。そう語る正昭さんのかたわらには、四代目の息子・明良さんがひかえる。
 そして関東大震災が発生した1923(大正12)年、帝国ホテルの新館が完成。日本のフランス料理界はホテルの時代を迎える。

次回につづく


長瀬広子=取材、文 阿部吉泰、星野泰孝=撮影

本記事は雑誌料理王国第228号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第228号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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