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【保存版】日本のフランス料理の歴史 #2 日本の表玄関横浜に始まる


ホテルニューグランドは
やりがいのあるホテルだ――。

初代総料理長 サリー・ワイル

「日本の表玄関」横浜に始まる
ホテルニューグランド

 ペリー提督率いる米海軍の要求で開国して以来、横浜には外国人居留地が設けられ、日本の表玄関としての歴史を刻んできた。しかし1923(大正12)年9月1日。関東大震災が、ホテルの建ち並ぶこの美しい国際都市を、一夜にして廃墟にした。

市民の熱意で生まれた復興のシンボルが昭和を告げた


 震災からの復興のシンボルとして建設されたのが「ホテルニューグランド」である。建設の中心的役割を担った有吉忠一横浜市長は、市議会にホテル建設計画を提案。横浜商工会議所や地元財界に働きかけ、今でいう第3セクターのような仕組みを作った。建築総工費の総額121万5000円は、市民からも広く集めた。ホテルニューグランドは、横浜市民の熱意があってこそ誕生した。それは横浜の復興のみならず、昭和の幕開けを告げる記念碑でもあった。

 1927(昭和2)年のホテル開業1カ月前――。横浜市の招聘で来日したのが、当時ヨーロッパ料理界の貴公子といわれた初代総料理長サリー・ワイルだった。

 当時の新聞に「東洋の粋と西洋の華を配合したホテル」と賞賛されたホテルニューグランド。その厨房の設備や器具は、最新式のアメリカ製が用意された。フォワグラやキャビアは缶詰だが、カナダ産の羊肉やソーセージ、スイス産やオランダ産のチーズ、イタリア産のマカロニやスパゲッティ、セロリやレタス、グレープフルーツといった食材が、海を渡って運ばれた。

 廃墟の記憶が残る横浜に降り立ったサリー・ワイルは、新しいホテルの優雅な姿と、その厨房に感激したのだろう。故郷スイスの母に、「ホテルニューグランドはやりがいのあるホテルだ」と手紙を送った。そして約20年にわたって初代総料理長はその手腕を存分に発揮したのだった。

シュリンプドリア
ご飯にクリームソースをかけて焼いたドリアは、ホテルニューグランドから日本中に広まった人気の洋食。外国人客から「のどごしのよい料理を」と注文され、サリー・ワイルが即興で作ったもの。

厨房から始まったサリー・ワイルの「革命」


 サリー・ワイルは、格式ばったフランス料理を「楽しいもの」にした。手軽に料理を食べられるグリル・ルームを新設し、自らグリルに出向き、お客との会話を楽しんだ。コース料理に代わってア・ラ・カルトを取り入れた。メニューに並ぶ数ある料理のなかから、好きな料理を選んで食べられるとは、まさに画期的な変革だった。

「ワイルさんはフランスはパリで活躍中で、修行中に全盛期のエスコフィエの料理の影響を受けていました。基本があり、そこから柔軟な発想でお客様に喜んでいただける料理を作りました。体調をくずされた宿泊客のために、即興でつくったシュリンプドリアが象徴するようにワイルさんの料理には心からの温もりがあります。その伝統はずっと守られている、と自負しています」と、ホテルニューグランドの第五代総料長の宇佐神茂さんは語る。
 サリー・ワイルの温かい心と旨い料理は、ホテルニユーグランドに脈々と受け継がれているのだ。

 1934(昭和9)年、ホテルニューグランドは東京に進出する。西銀座5丁目に「レストラン・東京ニューグランド」をオープンしたのだ。横浜の有名なホテルが進出した、と日本中から注目を浴びた。そんななか、ワイルは横浜と東京を忙しく往復した。

記憶に残る味、手の温もりを感じる料理。これがサリー・ワイルさんの教えです。 

ホテルニューグランド第五代総料理長 宇佐神茂さん
プランクドステーキ
サリー・ワイルが愛用した樫の木のステーキ用の大皿にのせて。円形に浅くくり抜いたところに肉汁がたまり、お客様の目の前で切り分ける。

東京進出でさらに増えた「サリー・ワイルの息子たち」


 東京のレストランでは入江茂忠(のちのホテルニューグランド総料理長)、小野正吉(のちのホテルオークラ総料理長)、木沢武男(のちのプリンスホテル総料理長)らが腕をふるった。ワイルの薫陶を受けた優秀な料理人が戦後、東京フレンチの表舞台で活躍する。彼ら「ホテルニューグランド」系のシェフたちのなかには、ワイルに憧れニューグランド開業の翌年に入社、のちに日活国際ホテルの料理長となり、東京オリンピックで選手村の料理長のリーダーを務めた馬塲久もいる。

 また、ワイルのもとで二代目現場責任者を務めた荒田勇作は、戦後、「国際調理師技術協会」を結成する。荒田勇作は、1956(昭和31)年に、スイスに帰国していたワイルが来日した際、ワイルからヨーロッパ16カ国の司厨房士連盟への加入をすすめられる。これは、敗戦国日本での個人の海外修業がままならない状況を憂慮したワイルの計らいで、その仲介によって「国際調理師技術協会」は、ヨーロッパ司厨士協会への加入を認められる。以後、この組織を通じて多くの日本の料理人の海外研修が実現することになるのである。

 晩年の荒田勇作に憧れ、料理人を目指した戦後生まれの若者がいた。「学生のときに読んだ西洋料理集に感激し、卒業後は著者の荒田勇作氏のもとで働くのだと決めた」と語るのは、東京・渋谷「シェ・アズマ」のオーナーシェフ東敬司さんだ。

 当時80歳近かった荒田勇作は、東京・内幸町の「レストラン・キャッスル」の総料理長だった。東さんは、師を「荒田の親父さん」と呼ぶ。「新米の僕は毎朝、親父さんに紅茶を出す係で、手が震えるほど緊張しましたね。食材のムダを出さないように仕込まれました」と東さん。

82歳の最期まで現役を貫いた「荒田の親父」亡き後、東さんは司厨士協会スイス派遣団に加わって渡欧。スイス、フランスで料理の研鑽に励む。サリー・ワイルと「ホテルニューグランド」系は、戦後生まれのシェフに多大な財産を残したのだ。東さんは「クラシカルな味を守りたい」と言う。それはサリー・ワイルにつながる「記憶の味」である。

サリー・ワイルの弟子・荒田勇作さんに憧れて19歳の僕は料理人の道を目指しました。 

シェ・アズマ オーナーシェフ 東敬司さん
仔牛のパン粉焼きウィーン風
「キャッスル」に登場していたメニュー。こんがりと焼いた仔牛のモモ肉にこがしバターのソースが絶妙。輪切りのレモンの上にのせたアンチョビのミジンきりと、裏ごしした卵の白身と黄身がアクセントに。マッシュポテトの焼き色も美しい。

長瀬広子=取材、文 依田佳子撮影

本記事は雑誌料理王国第228号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第228号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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