【連載】和食のルーツをさぐる②   『二つの画期-雑食化と定住化-』


貝塚と雑食化 

今から7,000年前ころ(縄文時代早期後葉)、遺跡分布は内陸から沿岸域へとシフトしつつ拡大し、貝塚が急増する。「縄文海進」によって拡大した「奥東京湾」「古鬼怒湾」という二つの大きな内海の沿岸にムラが密集し、ハマグリやマガキ、ハイガイを中心とした小さな貝層がたくさん現れる。東京湾の漁業史はここに始まり、現在の漁師は7,000年の伝統を受け継いでいることになる。貝類の利用の活発化とともに、植物質食材をすりつぶす粉食用石器の利用も普及する。
このころから、日本各地の海・山・河川・森林・里で食材の探索、獲得や調理の技術開発が活発に行われる。環境の変化と土鍋の利用、そして狩猟によって鍛えられた脳と大いなる好奇心によって、わたしたちの祖先は究極の雑食動物として力強く歩みはじめた。サルから受け継いだ雑食用の歯がようやく本領を発揮することになったのである。


縄文前期の貝塚 

海岸につくられた貝塚の貝層
千葉市宝導寺台貝塚

「奥東京湾」を囲む現在の千葉北西部、大宮台地を中心とした沿岸部に集落・人口が集中し、多くのムラで小さな貝層がたくさんつくられた。例外的に大きな貝塚は当時の海岸線から発見される。千葉市宝導寺台貝塚では、ハマグリやマガキの大きなものを大量に廃棄している。春を中心に海岸に人が集まり、貝のむき身づくりが行われた場所である。ハマグリとマガキが選ばれたのは実が大きく美味しいからであろう。この時期の特徴をよく表す事例がある。宮城県気仙沼市の波怒棄館(はぬきだて)遺跡のマグロ椎骨140kg、石川県能登町の真脇(まわき)遺跡のイルカ286頭というような、知識と技術があれば一度に大量に入手できる食材の利用である。利用可能な食材を探索し、技術と経験を研く取り組みが前期までに進んだことを象徴している。


定住化 

このあと「雑食化」にも勝る最大の画期を迎える。約5,000年前ころに明確になる「定住化」である。前期までに探索・利用された食材のなかから、各地域で安定して入手できる食材を選び、組み合わせることによって、年間を通じた安定した食を手に入れた縄文人は、各地で定住的なムラとそれが集まった地域社会を形成した。そこではマグロやイルカの利用は低調になるが、貝の利用はピークを迎える。


漁撈民ではなかった 

貝層から出土した深鉢(鍋)
特別史跡加曽利貝塚出土

約5,000年前、年間を通じた食を手に入れた縄文人は、列島各地で定住的なムラをつくり、豊かな文化を醸成した。東京湾内湾の美味しい食材に目を向けた多くの人たちが、関東各地で発達した文化を持ち寄り千葉の地に移り住んだ。加曽利貝塚に代表される東京湾東岸の大型貝塚群は、このようにしてできたムラの集まりである。縄文時代の食の地域差はきわめて大きく、全国各地でそれぞれの地域の食材を活かした鍋料理が生まれ、定住型の生活と社会を支えた。出土人骨に残るコラーゲン分析によって初めて明らかになったのは、安定した食を得た時期であっても、ほぼ肉食の地域からほぼ草食の地域まできわめて多様であったことであり、東京湾東岸の人々は肉・魚貝類・植物をバランスよく食べていたことである。人類史上ほかに例のない貝類を盛んに利用した人たちは漁撈民ではなかったのである。

第三回「定住を支えた食」に続く

西野雅人(にしのまさと)
千葉県柏市で育つ。明治大学卒業後、千葉県の職員として遺跡の発掘や保護の仕事を続け、現在は千葉市埋蔵文化財調査センター所長。大学1年で参加した貝塚の発掘にはまり、それから40年千葉県の貝塚研究をもとに縄文人の資源利用や食文化の解明に取り組んでいる。特別史跡加曽利貝塚を貝塚研究の拠点にして、魅力を発信・活用していきたいと日本酒を飲みながら考えている。


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