名匠のスペシャリテ「玉木」玉木裕さん

時代を超えて愛され続ける名匠のスペシャリテがある。
連載22回目は、東京・銀座の西洋料理の名店「玉木」のオーナーシェフ玉木裕さんと、至福の「ビーフシチュー」。

自分自身の中で完結できる仕事を得て、思う存分夢を追いかけたい。
18歳の私は、こんな想いを抱いて料理人の世界に足を踏み入れました。そして10年。パリ8区の一つ星のレストランで働けることになりました。ところが私の舌は、憧れの本場のフランス料理をおいしいと感じない。ソースの味はきつ過ぎるし、デザートは甘すぎる。でも不思議でした。2、3カ月経つと、私の汗の匂いが、日本にいるときとは違ってきた。と同時にパリの料理を「旨い!」と感じるようになってきたのです。人の味覚は、風土と切り離せない、と身をもって知りました。

パリの料理はゴッホの油絵のようですが、日本人の味覚に合う料理は水彩画ではないか――。この28歳のときのパリでの実感が私の原点となり、以来、日本人に「旨い!」と思ってもらえる洋食を創り上げたい、と願い続けてきました。それには、日本の風土に育まれた四季折々の食材を、和、洋の技法に拘らず、素材が最もおいしい状態で召し上がっていただくことではないか。私の料理に対する考え方がまとまってきたのです。

帰国後、原宿の割烹「重よし」の佐藤憲三さんのもとで働きました。この3年間は、とても貴重な日々でした。佐藤さんは、無駄なことが大嫌いな方。余計なこと、無駄なことをするな、という「引き算」の大切さを教えていただきました。師に恵まれることは人生の宝です。初めてこの世界に入ったときは「神戸ニューポートホテル」の宮崎照男料理長から、「聡明であれ」と教わりました。今、つくづく思います。二人の師に恵まれたからこそ、現在の「玉木」が存在すると。

ビーフシチュー
最高級の神戸牛がとろりと口の中でとける。深く優しい味わいのビーフシチューは、まさに至福のひとときを届けてくれる。

日本の風土にあった、優しい味わいの洋食を


6時間かけてつくる「ビーフシチュー」は、48歳で「玉木」をオープンした当時からの一皿です。最高級の神戸牛のバラ肉を、表面がきつね色になるまで焼いたあと、フランスのボルドーやローヌなど、タンニンがあってしっかりとした飲み口の赤ワインで煮込みます。じつはこのビーフシチューには、進化しながら、現在の味になり、ハヤシライスにもなったという経緯があります。その発端は、『週刊プレイボーイ』の編集長で作家の〝人生の達人〞島地勝彦氏が、「レトロなハヤシライスを食べたい」とおっしゃったこと。
「ちょっと違う」と首を横に振る島地氏とともに何度も挑戦し、8回目にして、ハヤシライスが完成しました。つまり、この過程で島地氏に納得していただけるビーフシチューができないといけない。と言うのも、でき上がったビーフシチューにタマネギとマッシュルームのバターソテーを合わせる、これがハヤシライスとなるからです。

結局は人とのご縁が一番大切ではないでしょうか。島地氏をはじめ、銀座にお越しいただく食通のお客さまの「旨い!」の笑顔を励みに、パリでの原点に磨きをかけて「玉木の料理」を創り続けています。いつまでもこの小さな店のオープンキッチンに立ち続けたい、と願いながら、お客さまに喜んでいただける「優しい味」を心がけています。

玉木 裕 Hiroshi Tamaki
1959年、兵庫県神戸市生まれ。「神戸 ニューポートホテル」勤務後、28歳でフランスへ。パリの「レストラン・ラ・マ レ」で研鑽を積み、帰国後は東京・原宿の割烹「重よし」で日本料理を学ぶ。「グレートアイランド倶楽部」統括料理長を経て、 2007年に「玉木」をオープン、4年後に銀座に移転。和、洋の技法に拘らずに創る美味なる洋食は、食通を唸らせている。

text 長瀬広子   photo 富貴塚悠太

本記事は雑誌料理王国2014年3月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は 2014年3月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。