名匠のスペシャリテ「シェ・イノ」井上旭さん


私がパリのマキシムで修業したのは1971年から翌年にかけてのこと。その頃のマキシムといえば、明治の鹿鳴館ではないけれど、貴族から政財界、芸能界、モード界の大物が集う社交場だった。オペラがはけると、着飾った紳士淑女がマキシムにやってきて10時半くらいからもう一度盛り上がる。世界の歌姫、マリア ・カラスさんもオナシスさんとよくいらっしゃった。私は厨房からそんな華やかな世界を見て、もうびっくり仰天したわけだ。

マリア・カラスと命名した仔羊肉のパイ包み焼きをメニューに載せたのは74年頃、「銀座レカン」で料理長として働いていた時かな。マリア・カラスさんもオナシスさんもギリシャ人だから羊をよく食べていた。フランスでは仔羊は高級食材のひとつだった。しかし、当時の日本にはフランスのように質のいい羊が手に入らない。羊といえばジンギスカンで、しかも臭いというイメージも強かった。そんな誤解を解くためにも、私はなんとか工夫をして日本人に羊をおいしく食べてもらおうと思った。

それで、仔羊肉で香りや旨味のあるトリュフやフォワグラ、デュクセルを包み、さらに外側をパイ生地で包んで焼くことを思いついた。ソースは私の得意のペリグーで決まりだ。パイ包みを切り分けた瞬間の香りを楽しんでいただくために、お客さまの前で切り分けることにした。これは無から出来上がったものではない。その原形として古典料理のブッフ・ウェリントンがあった。ヨーロッパで6年間修業して基本を身につけていたからだ。そこに自分なりのセンスやインスピレーションが加味された結果だった。 

ばらばらになっていたパズルが一瞬のうちに完成した感じだった。当時はレシピを書き留めるなんてこともなかった。自分の頭の中にあればよかった。実際に作ってみせて、うまいのか、まずいのかしかない。

マリア・カラスは、愛おしくもと尊い存在なんだ。

マリア・カラスという料理は、家で言えば土台のようなもの。それを中心にして、いろんな料理があるということかな。私を年近く支え続けてくれたという意味では、尊い存在でもある。当時に比べれば、仔羊の質は格段に上がっている。今ではニュージーランドやオーストラリアから最高級の仔羊が真空パックで届く。だから、今のマリア・カラスが最高においしい。実際、年近く経っても一番注文が多いのがマリア・カラスなんだ。

偉大なオペラ歌手の名前をつけるなんてロマンチックだと思わないかい。この料理は、マキシムで仔羊の料理を好んで食べたマリア・カラスさんと彼女のオナシスさんへの永遠の愛に対するオマージュでもある。でも、結局オナシスさんにふられたマリア・カラスさんを不憫に思うよ。いつの時代でも料理人が忘れてはいけないことは、伝統をベースにしながらも新たな料理や味を創造しようという心意気だよ。今の料理人全般に言えることだけど、心意気が足らない、夢が足らない、ロマンが足らないんだ。心意気が足らないから、夢やロマンの行き着くところがないんだよ。

マリア・カラスは、いわば私の心意気の証しなんだろうね。

仔羊のパイ包み焼き “マリア・カラス”
お客さまの前でパイ包み焼きを切り分けると、仔羊とトリュフの甘い香りが広がり、鼻孔をくすぐる。さらに口の中に含めば、仔羊の中のシャンピニオン・デュクセル、棒状のフォアグラ、トリュフとソース・ぺリグーが仔羊の肉と絡み合い、恍惚の世界へと導かれていく。

Noboru Inoue
1945年鳥取県生まれ。21歳で渡欧。スイス、ドイツ、ベルギーを経て、フランスの三ツ星レストラン、「トロワグロ」と「マキシム」で修業。72年帰国し、31歳で「銀座レカン」の料理長に就任。79年京橋「ドゥ・ロアンヌ」開店。84年京橋にオーナーシェフとして、パリのグランメゾンを継承する正統派フランス料理店「シェ・イノ」を開店。95年以降、渋谷「マノワール・ディノ」、恵比寿「ドゥ・ロアンヌ」、日本橋「ポンドール・イノ」を開店。仕事と遊びに徹し、女性とワインをこよなく愛する人情家でもある。


料理王国=文、長嶺輝明=写真

本記事は雑誌料理王国2012年9月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2012年9月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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