浜作の料理 マッキー牧元【第5回】


日本で最初の板前割烹、「浜作」。昭和2年に森川 栄さんが祇園で創業し、今は3代目の森川裕之さんが暖簾を守ります。この連載は、そんな浜作に「タベアルキスト」マッキー牧元さんが食事に訪れ、思索を巡らせた記録。至ってシンプル、それでいて心も技も尽くされ、かつ日本料理の芯を外さない浜作の料理の真髄を、月に一度伝えます。今回は7月の献立です。

訪れたのは、祇園祭が終わった翌日の26日だった。
昨日までの賑わいが幻のように、新町通六角町はひっそりとしている。
祇園祭の名残を伝える扇子が奥に飾られ、そのうちの一つは、町の象徴である六角の紋様が描かれていた。

ひんやりとした「胡麻豆腐」から料理は始まり、やがて「牡丹鱧のお椀」で一つのクライマックスに達する。

椀ものに続くお造りは、「鱧の落とし」だった。
今まで、随所でいただいてきたことがある料理である。
だがそれは、明らかに違った。

皮が歯に当たらない。

ふんわりとして、溶けるように口の中から消えていく。
その刹那、うまみの中から気品漂う、たくましい甘みがそっと滲み出た。
それは数秒であったかもしれない。数分であったかもしれない。
だが夢や幻のように、長くたなびいていった。

喉に落ちた瞬間、体に養分が行き渡っていくのに、力が抜けるような、不思議な感覚に陥った。
余韻は長く、いつまでも口の中に残っている。
「梅肉ではいけません。二杯酢にわさびを溶いて召し上がっていただくのが、京都です」。
そう森川さんは言われた。

梅肉を使うようになったのは、最近(と言っても70年くらいだが)だという。
「鱧の落としは7月でないとできません。皮が薄くないとできないからです」。
そんな鱧を、一切れ27回骨切りをする。
普通は茹でて、すぐ氷水に落とし、引き締める。
だが「浜作」は異なる。

鱧のスープとお椀時に茹でた湯で、鱧を茹でる。
そして、すぐ氷水には落とさない。
軟水のぬるま湯に入れてから、徐々に氷を足していく。
「芯がぬるいのがちょうどいい」。

鱧だろうが人間だろうが、熱い体を冷水に浸けては、ストレスがかかる。
細胞にストレスかけることなく、ゆっくりと引き締めていくイメージだろうか。
加熱によって、最大限のうまみが引き出された鱧は、甘みを充満させたまま、気がつかぬうちに冷やされるのである。
だから冷たくとも、また命の気配がある。

圧倒感と雅、両極を併せ持たせた智恵に、心が痺れた。

7月の浜作

胡麻豆腐

「5分前にできました」。
そう言って運ばれた。

胡麻豆腐は冷蔵庫に入れてはダメだそうで、葛でつないだら流し缶に入れ、氷水で冷やすのだという。
口に運べば、冷たさが唇を通り過ぎ、ふり柚子の香りが来てから、ひんやり、ねっとりと舌にからんでいく。

他所は、このねっとりが、少ない。
胡麻豆腐は、舌と舞うように崩れ、胡麻の香りを漂わせて、最後においしい出汁地が抜けていった。

さざなみ

鮑を一口大に切り、醤油をまぶし、胡瓜、とろろ芋と合わせた料理である。

鮑は蒸したてであり、まだ少し暖かい。
そのため磯の香りが漂い、そこの鮑の滋味が溶け出して、色気を漂わせる。

合わせるのは名物の胡瓜。
徹底的に水分と青臭さを搾り切った胡瓜の食感が、溌剌を生み出し、対照的なとろろ芋やじゅんさいのぬるりとした粘りが加わる。

椀物
牡丹鱧、柚子、輪違瓜

一口飲む。一口鱧を噛む。

7月の鱧のお椀をいただき、いつも思う。
鱧の料理としてこれ以上のものはないのではないかと。
この時期、日本中で鱧のお椀が出されているだろう。
だが私の知る限り、別格である。

まず熱々のつゆをいただく。
最上の昆布とカツオの頂点が出会い溶け合った、美味しさの極みが舌を流れゆく。

「ふう」。

その豊饒と力強さに、その丸みと平安に、息が抜けた。
豊かさが漲っているのに、精神を安らかにいたわる汁は、他に見当たらない。

次に鱧を一口いただく。

口溶けが違う。

葛のぬめりが優しく唇に触れ、口の中に滑り込むと、脂が乗った鱧がとろっと崩れていく。
そこには、命のたくましさの中に秘めた繊細がある。
やはり「浜作」の「牡丹鱧椀」は、この料理の頂点だろう。
濃密なつゆと鱧の肉が抱き合い、高みに昇っていく興奮は、食べ終わり、飲み終わって、静かに引いていく。

だがまだ余韻がある。
なんという余韻の長さだろうか。
10分も20分も、続いていく。

その余韻だけで、お酒をいただき、今年も「浜作」の鱧に出会えた幸せを噛み締めるのだ。

イチジクの胡麻あんかけ

一口食べた瞬間、鳥肌が立った。

今まで何度も、各所でいただいてきた。
しかしこれをいただいてしまっては、もう一生、他では喜ぶことができないかもしれない。
そう思うほど、孤高の美しさがある。

今まで出会ったそれは、煮イチジクが水っぽく、それとバランスを取るために、ごまあんが重かった。
それでも十分においしい。

だがこれは違った。
あんはさらりと、静かに寄り添っている。
イチジク はというと、今もぎましたというばかりに、みずみずしい。
スプーンを刺せば、スッと身が割れる

その時に驚いたのは、イチジクからエキスが一切離水していないことだった。
煮汁を抱えつつ、命の張りを保っている。

あんは、イチジクの可憐な肉体と気品ある甘さをいたわるように、優しい。
ふわりと胡麻の甘さを滲ませながら、イチジク と同化している。

地平の彼方まで自然であり、その精妙なる出会いが、雅を生んでいた。

それゆえか。
口に運ぶだびに、体は宙に浮き、甘美に満たされていくのだった。

食べ終わって、ご主人に作り方を尋ねた。
それは使うイチジク の見分け方から違う。
あえて未熟の固いイチジクを使い、出汁と砂糖、半分の水とレモンで炊く。
そして氷水で冷やす。
その煮汁にあたりたての胡麻入れて、少量のレモン汁を加えるのだという。

恐ろしく念入りで理論的、かつ丁寧であり、料理の基本を考えさせられるものだった。

焼物 美山の天然鮎

しっかりと、焼き込んだ焼き具合がいい。
小さげ鮎なので、頭からいく。
塩焼きの塩分、身のほのかな甘み、蓼酢の辛味と酸味、
日本料理に「辛酸鹹苦甘」という言葉があるが、まさにそれを体現する味わいである。

賀茂茄子の袱紗煮 小芋 インゲン

揚げたナスを切って、合わせ味噌と炊いた料理である。
ナスにすっと歯が入ると、濃い味噌の味を超えて、とろとろになった甘みが舌に広がる。
その味を一旦切るように、石川小芋の存在がある。
「最初から最後まで、同じように歯が入るように炊くことが肝心です」。
「京野菜はいろいろありますが、堀川牛蒡や鹿ヶ谷南瓜も美味しない。冬瓜も使いません。親父もおじいちゃんも好きやなかったです」。
「この南瓜は蒸しています。炊いてはいけません」。

揚げ物 海老のあられ揚げ

カタモチの焼き冷ましを砕いて、あられ揚げにしてある。
あられと違って、軽さと甘みがある衣になることと、大きさの不均一さが美味しさを生む。
噛んでいくと、粘り強く、ほんのりとした甘みがある。

スズキの蓮おろし

焼きたての魚に熱々のあんをかけて、すぐに食べてもらう、板前割烹の本領が発揮される料理、揚げおろしである。
スズキの、ややもすると獰猛なまでのたくましい味わいを、おろし蓮根が優しく包み込む。
ふっと心が座り、今夜の良き料理を振り返る。

素麺

縛った素麺を茹でて、氷水で徹底的に冷やす。
だがその前に、ぬるま湯で洗い、6段階にわけて氷で冷やしていく
そうめん泳がさない。

最後は、氷水の中で、50回回して冷やしていく。
極細の中に、確かなコシがあって、実にいい。
素麺のアルデンテである。

このコシがあってこそ、喉越しが良くなり、噛むと小麦の甘い味を感じる。
使われるのは、三輪素麺山本の七年熟成ものだという。

鱧寿司

典雅な鱧寿司である。

なんと、口にすれば、ひっかかるものが何もない。
鱧と酢飯の境なく、ふんわりと噛み切れて、木の芽のアクセントが追いかける。
木の芽、鱧、酢飯は、どこまでも自然にであり、味が馴染んでいる。

水菓子

photo, text マッキー牧元

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