日本のイタリアンの歴史Part2 (1970年代)


目次
70年代、80年代 日本のイタリアン花開く
「味」は文化そのもの。日本人の手でイタリアを提供
日本人シェフによる本場のイタリア料理登場
【インタビュー】文流会長 西村暢夫さん

70年代、80年代 日本のイタリアン花開く

「日本のイタリア料理は戦後のものだ」と、多くのベテラン料理人は言う。実際、イタリア料理というジャンルを名乗る人が登場したのは、まだほんの40年足らず前の話である。高度成長の下で海外に目を向け始めた日本人は、新たな料理を求めていた。イタリア料理は家庭料理。それゆえ毎日食べても飽きない。追い風に乗り、日本のイタリア料理が一気に大輪の花を咲かせる。

1970年代の”外食”は、日本に上陸したファーストフードで幕を開ける。70年11月にケンタッキー・フライド・チキン、71年4月にミスタードーナッツ、7月にマクドナルドが相次いで開店。情報に敏感な都会の若者たちを中心に、外食はファッションとして受け入れられていく。そして日本のイタリアンもまた、開花の準備を整えた。

「味」は文化そのもの。日本人の手でイタリアを提供

そうしたなかで、イタリア書房の西村さんが73(昭和48)年に東京・高田馬場に開いたのが、「リストランテ文流」だった。海外のイタリア料理店の多くは、イタリアからの移民とその子孫が経営者だが、日本では、むしろイタリアを愛する日本人がイタリア料理の発展を支えてきた。「文流」は、その立役者の”ひとり”であった。

ローマの国立料理学院における講習会や、イタリアから料理人を招いた講習会を開催。トスカーナ州に料理学校を設立し、毎年、若き料理人を送り込んだ。ここから巣立った実力派シェフや料理研究家は多い。「とはいえ、『文流』も最初から順調だったわけではありません。約8カ月は開店休業のような状態でした」

高田馬場 リストランテ文流
東京都新宿区高田馬場1-26-5 FIビルB1F
03-3208-5447
● 11:30~14:00 17:00~22:00LO(日祝~21:00LO)
● 年末年始休
● 48席
http://www.bunryu.co.jp/

日本人シェフによる本場のイタリア料理登場


潮目が変わったのは翌年の春。食通で知られた作家・丸谷才一さんが文藝春秋で店を紹介してくれ、「本格的なイタリア料理が楽しめる店」と認識されるようになった。

「海の幸ときのこのスパゲティ」は、オープン当初からの人気メニュー。「文流が作り上げた味を召し上がっていただくことが使命だと思っています」と、三代目シェフの岩崎弘之さんは言う。長く愛されるレストランには、ひと皿の変わらぬ味がある。

その文流が定期的に行っていた、イタリアの料理人を招いての講習会。その通訳を務めていたのが、「トラットリア・ピエモンテ」のオーナーシェフ革島宏男さんだった。イタリア語やフランス語などを操る語学力と、料理の知識を見込まれてのことである。革島さんは外国船の料理人にと誘われ、50年、船に乗った。19歳のときだ。結局、延べ7年間、船の厨房で働いた。船の厨房では何でもしなくてはいけない。それゆえさまざまな知識や技術が身についた。「本物の味を知っていることと、確かな技術さえあれば、どんな料理でもできる。それは父の口癖でした」と、二代目シェフの革島宏一さん。

宏男さんは船を降りてからは、麻布や六本木の高級レストランの料理長を歴任。しかしイタリアのトラットリアの楽しい光景が忘れられず、76年に「ピエモンテ」を開いたのだ。リストランテではなく、大衆食堂の印象が強いトラットリア。イタリアンがまた一歩、大衆に近づいた。

荻窪 トラットリア ピエモンテ
東京都杉並区荻窪5-30-12 グローリアビルB1F
03-3398-0668
● 11:30~14:00LO 18:00~21:00(夜のみ要予約)
● 日年末年始休(変動あり)
● 28席

20代で初めてイタリアの土を踏みその文化に惚れ込んだのが始まり

【インタビュー】文流会長 西村暢夫さん


戦後しばらくして、イタリアの映画がたくさん日本に入ってきた時期がありました。それらのイタリア映画にひかれて、私はイタリア語を学ぶことを決めたのです。

当時の日本で唯一イタリア語を教えていたのは東京外国語大学で、私はそのイタリア語学科を卒業しました。でも、50年以上も昔のことですから、イタリア語を学んでも就職口はありませんでしたね。

それでも、イタリアと関わりたくて、イタリア中心の洋書を扱う書店を始めたんです。最初は本を一冊一冊風呂敷に包んで、行商のようにしてイタリアの本を売り歩いていました。それがきっかけで、明星食品の社長さんの通訳としてイタリアへ行くことができたんです。まだ20代。初めて行ったイタリアでは、何もかもが輝いて見えました。

結局、自分のイタリア語はまったく通じず(笑)、社長さんにはご迷惑をおかけしたのですけれど、その経験がエネルギーになりました。帰国後は、イタリア語の会話学校を開き、『伊和中辞典』などの辞書や事典の編さんに携わりました。

当時は手つかずの分野でしたから、逆に、人もモノも”本物”だけが集まった。それは、私にとって素晴らしい経験になりました。「リストランテ文流」は、そうした流れのなかで生まれました。「文流」とは、文化交流の略です。
最初は散々でしたよ。スパゲティをアルデンテで出すと、「固い」と文句を言われる。ビールを注文するお客さまに「ワインしかございません」と言って怒られる。イタリア料理など、皆さんほとんど知らない時代ですから、「これがイタリアの味なんだ。これがイタリア文化なんだ」と分かっていただくまでには、それは時間がかかりました。今では考えられないことですね。
 

私は昔も今も、料理は生きた世界遺産だと思っています。料理は、300年、500年前の人々の暮らしを伝えてくれる。料理を学ぶ人たちには、レシピの底に流れる文化も読み取ってほしい。そういう勉強の仕方をしてほしいと、切望しています。

1956年東京外国語大学イタリア語科卒業。東京都港区立中学校の英語教師を経て、58年、イタリア書籍輸入専門店「イタリア書房」を開業。その後、神田に進出し、社長業職を12年間勤める。73年にイタリアとの文化交流を業とする株式会社文流を創設。同年7月、「リストランテ文流」をオープン。


続きはこちらから
日本のイタリアンの歴史Part3(1980年代)
https://cuisine-kingdom.com/italianhistory3

山内章子=文 大野利洋、富貴塚悠太、星野泰孝、依田佳子=写真

本記事は雑誌料理王国第219号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第219号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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