ロンドン郊外で育ったインド・ルーツのシェフ、チェット・シャルマさんの長旅が始まった。インド亜大陸への憧憬とリスペクト。膨大な種類のスパイスと伝統種の作物への科学的アプローチ。全てがBiBiで昇華される。
少しの間Umamiを忘れ、極上のSpiceに身を委ねてみよう。例えばロンドンで今いちばんホットな現代インド料理店、「Bibi」のカウンター席に座れたなら、SpiceがUmamiをエスコートしてくれるようなテイスト・ジャーニーがきっと待っている。
Bibiは伝統と洗練、都市と田園、物語と食材を結びつけ、大きく美しい楕円を形づくろうとしている。それはオーナシェフであるChet Sharma / チェット・シャルマさんが目指す食の宇宙そのものだ。オープン翌年の2022年には英国におけるベスト・レストラン賞を立て続けに受賞し、30代半ばでそれまでの人生を集大成したようなレストランBibiをロンドン中心部の高級エリアにオープンした。とにかく貫禄たっぷりなのだ。
その余裕と自信には、理由がある。幼少時から探究心が旺盛だったチェットさんは、英国を代表する大学で科学や物理学の修士号、そして博士号を取得した英才だ。就学中はロンドンのナイトクラブでセレブに混ざってDJざんまい。その合間に高級レストランの厨房で世界的なシェフの下、料理の真髄について学び、ついに自宅キッチンで料理の実験・開発をするようになった。それはまるで科学を実践するかのように。美しい自分だけの音を生み出そうとするかのように。
何事も「極める」。チェットさんは「好き」だけを追求する新世代シェフなのである。
研究する分野は、例えばこんな感じだ。単一農園で育ったスパイスの良い点は? 伝統穀物は、改良を重ねたものに比べて血糖値の上昇具合はどう違う? 味覚が優れているのは言わずもがな。持ち前の分析スキルを使って研究を重ね、大胆かつ創造的にレシピを開発し、世界トップの厨房で磨いた技術と組み合わせる。事実、チェットさんはやがてレシピ開発シェフとして一目置かれる存在となり、多くの一流店で先導する立場になっていった。
彼が関わってきたレストランを列挙すると、英国の業界関係者なら唸らざるを得ないラインナップとなる。インド料理店はもちろん、イタリアン、モダン・ブリティッシュ、フレンチなど縦横無尽に冒険を続け、その中にはエル・ブジの流れを汲むバスクの2つ星レストラン「ムガリッツ」や、今年になって3つ星になったロンドンの「ザ・レドベリー」の名も見える。
チェットさんのキャリアのうち、アジア系のレストラン開発を得意とするレストラン事業者「JKSグループ」への貢献は大きい。JKSは今ロンドンで最も力のあるレストラン事業者の一つであり、2013年にロンドンに颯爽と登場した新世代の高級インド料理店「Gymkhana」(ミシュラン2つ星)を大成功させた立役者でもある。チェットさんは2021年にJKSを離れ、パートナーシップの下にBiBiをローンチ。自身の経験と食哲学を反映させている。
BiBiとは「家の女主人」という南アジア地域の言葉が転じた「祖母」という意味のウルドゥー語。チェットさんにとって二人の料理上手な祖母たちは偉大なインスピレーションであり、祖母へのリスペクトを店名に込めることでルーツの大切さを表明している。
BiBiではインド亜大陸の多様性を伝えると同時に、事業のあらゆる側面で持続可能性を追求している。クオリティ、味、安全性は三位一体だ。最高峰の英国産アルチザン・チーズ、近海からデイボートで水揚げされた魚介類、厳しい自然の中で放牧されて育った色濃く、引き締まった肉質の仔羊など。使用する炭は持続可能な国産ホルムオーク炭だ。
インド亜大陸から届くのは、非交雑種の穀類、シャルマ家の農場で作られているPaigambariと呼ばれる小麦、無農薬栽培のスパイスなど。伝統穀類はでんぷん含有量が低く、必須タンパク質、ミネラル、ビタミンをより多く含み、Paigambari小麦は血糖値の上昇が緩やかで、葉酸、ミネラル、タンパク質が豊富に含まれているという。ヨーグルトやピクルス作りも、毎日の仕事だ。
昼のテイスティング・メニューはメロンやニンジンを含む15種類の材料がブレンドされたプロバイオティック飲料「カンジー」からスタート。英国産チーズ入りのタピオカ煎餅「パパド」にはマンゴーチャツネと2層になったグリーン・ペストを添えて。
インドのレモン水「ニンブ・パニ」を楽しむ鮮魚の前菜ではハラペーニョ・エマルジョンと煎ったキヌアの香ばしさがアクセントだ。ソフトな生姜バターに興味をそそられるムンバイ風ロールパン「ラディ・パヴ」に続いて、丁寧に下処理したアンコウに青唐辛子のピクルスを添えた温菜を。なめらかな魚介ソースはなかなかスパイシーだ。
メイン・ディッシュの一つは17世紀に遡る古いレシピにインスパイアされた絹のような舌触りの「ガルーティ・ケバブ」。搾乳用ヤギ肉を4回に渡って丁寧にミンチにすることで文字通り「口の中でとろける(ガルーティ)」状態に。エシャロット、コリアンダー・チャツネを添え、ルマリ・ロティと共に。
「シャルマジのラホール・チキン」はチェットさんの祖父にちなんだ料理。特製ヨーグルトとスパイスに身を浸して驚くべき柔らかさとなったチキンは、カシューナッツ入りのヨーグルト・ホエイ・ソースでさっぱりいただく。「Kaima / カイマ」と呼ばれるショート・グレイン米を鶏出汁で炊いたピラウライス、イエロー・ダールはいずれも研ぎ澄まされ、穏やかで地味深い。
デザートはインド産チョコレートのムース。ポン菓子を添えた米のアイスクリームがよく合う。「インド南部のポンディシェリーという場所で作られているチョコレートを使っている。インド産へのこだわりから繋がったご縁なんだ」とチェットさん(「チャーリーとチョコレート工場」でウィリー・ウォンカ氏にチョコレートの宮殿を作るよう依頼したのがインドのポンディシェリー王子というのは偶然だろうか)。
先日ご紹介した「デシ・パブ」や、インド系移民のメッカ、バーミンガムで生まれたミシュラン二つ星店「Opheem」などイギリスのインド料理のクオリティは総じて非常にクオリティが高いのだが、中でもインド亜大陸の食を、時空を超えて多面的に魅せてくれるBiBiは今、最注目のモダン・インディアン・レストランだと言っていい。そこはチェット・シャルマというシェフの多面性にそのまま通じている場所だ。
90種類のスパイスを使いこなすのが優れたインド料理のシェフなら、客はしばし、スパイスの大海に漂うことを潔しとせねばなるまい。
BiBi
https://www.bibirestaurants.com
text・photo:江國まゆ Mayu Ekuni