「やるからには中途半端なものは出せない」
柿沼進さんは20年近く、この一心でピッツァを焼き続けてきた。「マルゲリータ」と「マリナーラ」、2種類のピッツァにこだわり、その質の高さから、いつの間にか日本のピッツァの「聖地」などと言われるようになった。
柿沼さんの店「聖林館」は、中目黒駅から続く商店街の細い路地に面して建つ。まるで鉄の塊のように見える重厚な扉を開けると、モノトーンの空間が広がる。クラシック音楽が流れる。生地を伸ばし、釜の火を見つめ、1日約100枚、柿沼さんは無休で黙々とピッツァを焼き続ける。
「柿沼さんはイタリアでも有名。イタリアのピッツァ職人から彼の名前を聞いた時には本当に驚きました」。柿沼さんの腕にほれ込んでこの店に通う常連客のひとりは、最初の出会いをこんなふうに振り返った。
「ピッツァの〝命〞は生地だ」と柿沼さんは言い切る。生地に具材をのせるとはいえ、1枚のピッツァで一番たくさん食べる部分は生地だ。だから、「そこがおいしくなくてはならない」。そこで「聖林館」にリニューアルオープンする前の「SAVOY」時代にはフランス粉を使っていたが、今は熊本県の業者に頼んで国産の地粉をブレンドしてもらっている。ただし、何をどのくらいの割合で混ぜているかについてはわからない。
というのも、「こういう焦げめがついて、こんなふうに香り立つ粉がほしい」というように、柿沼さんのオーダーの仕方は実に抽象的だからだ。しかも納品しても簡単にはOKが出ない。季節によっても異なる粉の配合を、いろいろと分析しながら注文に応える製粉業者の努力を、「僕の注文に応じるのは大変」と柿沼さんは理解し、感謝もしている。
こうして届いた粉だから大切に扱う。粉にダメージを与えないとれるイタリア製の大型ミキサーを使うのもそのためだ。 高額な機会なので小型のミキサーで済ませている店も多いが、「命にはケチれません」。
発酵させた生地に触れるのは最小限にする。素早く伸ばすのも柿沼流。「Simple is the best。なるべく生地をいじりたくない」。生地の旨さを味わってもらうには、具もシンプルなほうがいいから「マルゲリータ」と「マリナーラ」の2種に絞っているのだ。もちろん、生地以外にモッツァレッラやトマト缶、ニンニクなども厳選している。その一方で、「あまりに希少なものを追いかけすぎるとコンスタントに入手できないことにもなりかねないので、そのバランスは大切にしています」と言う。
もとをたどればピッツァ職人になりたかったわけではない。憧れはジャズ界。アメリカを拠点にドラマーとして活躍するのが夢だった。しかし、自分の限界に気づいて夢を断念した時、思い立ったのが、「音楽を楽しめる店を開く」ということだった。そのため、「聖林館」で流す音楽は柿沼さんが厳選し、時には店内で音楽イベントも開催する。先月もジョン・レノンの命日に合わせてビートルズのヒットメドレーを流し、演奏会を開いた。「僕の好きな音楽に、たまたまイタリアで食べたピッツァが合った。それだけのことです」とさらりと言うが、その言葉に棹さしてこだわりに徹するのは、おそらく大工職人だった父親の影響だろう。
「職人はきつい仕事。だから避けていたはずなのに、今では職人としてピッツァを焼いている。お客さまに、僕の技術に対して代金を払っていただいているという感覚でいます」
ただし、「技術にお代をいただく」という境地に達するまでには、たゆまぬ研究と努力があった。何より「日本人好み」のピッツァに完成させることの必要性を柿沼さんは強調する。イタリアのピッツァをそのまま日本に持ち込んでも成功しない。どんな食べ物でも重要なのは、それを「誰が食べるか」ということ。だからイタリアでは完成された食べ物であっても、それを日本人が食べることになれば、すべてはゼロからやり直し。材料も発酵時間も、焼き方も、すべて「日本流」に見直して作り変える必要があった。蓄熱を考て、ピッツァ窯も特注して導入した。
こうした経緯でできた「聖林館」のピッツァは何ともシンプルで美しく、ストレートに食欲に訴えかける。「これほどのピッツァを完成させるのに何年かかったか?」と、柿沼さんはよく聞かれる。
「確実に変化してきたんでしょうが、僕にはその自覚がないんです」。だから答えは、「聖林館」のオープンから数えて「8年」となるか……。「けれども、今焼くピッツァが最高と考えているから、来年になれば、答は『9年』に変わるんですよ」と笑う。
柿沼さんは自他ともに認める〝オタク〞。しかし、その徹底したこだわりがあるから「聖林館」はピッツァの聖地であり続け、訪れる人を音楽と料理で幸せにする。
聖林館
Seirinkan
東京都目黒区上目黒2-6-4
● 11:30~14:00LO(売り切れ次第終了) 18:00~21:00LO
● 無休
● マルゲリータ、マリナーラ ともに1500円
※ ピッツァのみ税込価格
● 50席
上村久留美=取材、文 村川荘兵衛=撮影
text by Kurumi Kamimura photos by Shohee Murakawa