今から約5,000 年前、東京湾東岸に40 数か所の大型貝塚(大規模な貝層をもつムラ)が現れた。ムラの急増はおもに移住によるとみられ、西関東、北関東、東関東で前代までに発達した文化要素を引き継ぐことから、関東広域の集団の関わりが想定される。「環状集落」と呼ばれるムラのデザインは、中央の広場を囲んで貯蔵穴と竪穴住居を構え、貝や生ゴミはその外縁部に廃棄する、というルールが長期にわたって守られたことにより形成された。徹底した資源の再利用、ごみ処理、廃屋の処置など、その場所に住み続ける方針と行動は終始一貫しており、通年定住型の生活と社会を維持するための工夫に満ちている。
定住型の生活と、採集・狩猟民としては異例ともいわれる多くの人口を支えたのは、一年にわたって日常的に入手できる新鮮な海産資源と、ムラをとりまく森林の資源を組み合わせた安定した食であり、美味しい鍋料理であった。おもに利用された食材について具体的にみていきたい。
●海産資源
大型貝塚は、一部の例外を除くと内陸部に立地する。巨大な貝塚は、海の近くだからできたのではなく、海から遠く離れたムラに繰り返し大量の貝を運搬することによってできた。ムラと海の往復は、潮の干満を利用して舟で行われた。引き潮に乗って干潟の先端まで行くとイボキサゴのまきかご漁をし、河口側に戻りつつハマグリ漁と魚の網漁を行い、引き潮に乗って帰っていたと推察される。貝
類の9割近くを占めるイボキサゴは、大型貝塚形成の謎を解くカギであり、次回改めて取り上げる。
つぎに多いハマグリは、当初は大きなものも採れたが、頻繁な漁によって採取圧がかかり小型化する。競合するムラがない水系では資源の枯渇を防ぐため幼貝の採取を避けており、資源が減少するとイボキサゴ漁で混獲した幼貝をリリースしている。いっぽう、競合するムラの多い水系では、我先に採取して枯渇を招いたことが明らかになっている。主要2種のほかに利用されたのは、アサリ、シオ
フキ、マガキ、マテガイ、アカニシなどである。美味しい食材の認識は現代と変わらないようである。
魚類では、イワシ類(マイワシ・コノシロ・サッパ)、クロダイ、スズキ、ハゼ、アジ、カタクチイワシがとても多い。さらに、カレイ・ヒラメ、コチ、エイ・サメ、サバ、サヨリ、キス、ウナギ・アナゴなども多い。江戸前の美味しい魚ばかりである。河口から沿岸に回遊する雑多な魚種を小型の網でまとめて捕る漁法によって、これらの魚を旬の時季に口にすることができたであろう。鍋料理のためにウロコを除去していたようであり、ハマグリの縁辺を打ち欠いて歯をつけたウロコ落としが数多く出土する。製作して使ってみると、ウロコが飛び散りにくく、子供でも安全に作業ができる。
●森林資源
この時期の貝層は、どこを掘ってもある程度骨が入っているのが特徴であり、魚ほどではないが獣や鳥も少なくない。食材として圧倒的に重要だったのはイノシシとシカであるが、タヌキ、ノウサギ・ガン・カモ類、キジもよく利用されている。下総台地は旧石器時代から江戸時代までイノシシ・シカの宝庫であり、弓矢とイヌを使った猟やわな猟が行われた。
ムラの周辺にはコナラやクリ、クルミなどの雑木林が形成されており、これらの実を秋にまとめて収穫し、貯蔵穴で保存して計画的に消費していたようである。多数出土する打製石斧は、ジネンジョやワラビ、ユリ根のような根茎類の利用も活発だったことをものがたる。粉食のための石皿と磨石はこの時期の定番の道具である。
さらに、ダイズ、アズキ、エゴマ、キハダなどの栽培も行われていたことが近年の研究で見えてきた。ムラをとりまく景観は自然林ではなく、縄文人によって有用植物が管理・維持された里山的なものだったのである。
第四回「巨大貝塚をつくった小さな貝」に続く
西野雅人(にしのまさと)
千葉県柏市で育つ。明治大学卒業後、千葉県の職員として遺跡の発掘や保護の仕事を続け、現在は千葉市埋蔵文化財調査センター所長。大学1年で参加した貝塚の発掘にはまり、それから40年千葉県の貝塚研究をもとに縄文人の資源利用や食文化の解明に取り組んでいる。特別史跡加曽利貝塚を貝塚研究の拠点にして、魅力を発信・活用していきたいと日本酒を飲みながら考えている。