液体窒素の球が弾ける。水晶のように輝く透明な球体がスモークの軌跡を残しながら、踊るようにカウンターの大理石に消えていく。大きな窓からは、梅雨明けしたばかりの空の茜色の夕焼けの光が差し込んでいる。液体窒素を使った料理は何度も食べてきたが、「液体窒素がどんなものであるか」を見たことがなかったことに、気づかされた。カナダ育ちの日本人シェフ、牛窪健人氏が生み出す世界だ。
マンダリン オリエンタル 東京38階にある「タパス モラキュラーバー」は15年前の開業とともにオープン。アフタヌーンティーなどを楽しむ「オリエンタルラウンジ」内にある8席のカウンターで、「エルブジ」で注目を集めた新しい料理が食べられる、と友人に誘われ、私も開業当初お邪魔したことがある。「味噌汁のスフィア(球体)」など、日本の味を分子料理学の枠組みの中で紹介しているのが印象的だった。
この度、タパス モラキュラーバー4代目の料理長、牛窪氏が就任したということで、お邪魔した。牛窪氏は英語はネイティブ、日本語も流暢なので、それぞれの希望に合わせ、日本語でも英語でも説明をしてもらえる。
冒頭の一コマは、液体窒素を使った、外側は冷たく、内側は温かいチャウダーを作る前のプレゼンテーションだ。ちなみに液体窒素を少し触らせてもらったが、ひんやりとした空気が一瞬流れて消える触感は、不思議な感覚だ。
そんな五感を刺激する食体験を始める前に「ここでは普通のファインダイニングと違って、写真を撮りたければ立ち上がってもいいし、質問があったら、いつでも、なんでも聞いて。リラックスして楽しんで欲しい」と伝えられたのが印象的だった。多くのファインダイニングでは、暗黙のうちに、そのレストランの様式にあった作法が求められているように思う。それは、文化の継承でもあり、個人的には好きだが、同時に一つの「縛り」となってしまうことは否めない。牛窪氏は「自由に、ありのままでいていい。楽しみたいように楽しんで欲しい」と提案するだけでなく、料理を作りながら、軽妙なトークで、空気を和ませる。
アメリカの大学でアートを専攻した牛窪氏は、ここで提供する料理を「ゲスト参加型のアートパフォーマンス」と捉えているのだ。カウンターにはIHのヒーターが二つ、裏の厨房で下準備をする料理もあるため、そこから運ぶタイミングはゲストの食べるペースに合わせて調整するなど、まるでオーケストラの指揮者のような立ち位置だ。
「五感と想像力を刺激する14皿のアートギャラリー」というコンセプトを打ち出し、アートと、料理の共通点は「エモーション(感情)」だと語る牛窪氏。多くのシェフと異なるのは、牛窪氏が引き起こしたいと考えるのが「おいしい」「楽しい」「幸せ」という、多くのレストランが提供しようと考える感情だけではなく、時には「悲しみ」や「当惑」、「パニック」というような、通常マイナスとも捉えられかねない感情をも含む点だ。
例えば、少し前まで提供していた「金魚の脱走」という料理は、牛窪氏の個人的な体験に基づいている。「飼っていた金魚が、朝起きると、水槽から飛び出して息たえていたのです。金魚はよくやることなのですが。ある日それを見て『外の世界に何かを期待して飛び出したのに、結局は外では生きられず、雲の上に行ってしまったのだな』と感じたのです」
そう聞いて、湧き上がる感情は人によって様々だろう。向こうみずに外の世界へ憧れて飛び出した金魚への共感か、「そのままに生きていればよかったのに、可哀想に」という哀れみか。
そのストーリーを、下に生のイチゴを忍ばせた、雲をイメージしたクリームフレッシュの上にイチゴと赤紫蘇のシロップで作った「金魚」を乗せることで表現した。味の構成はイチゴのショートケーキで「そんなストーリーを聞いてからだと、本物そっくりの金魚にスプーンを入れるのが可哀想、という人もいる。それでも、食べると美味しい。そんな複雑な気持ちを呼び起こしてもらいたい」という。
「とはいえ、毎回自分の勝手なストーリーを聞かされるのではゲストが疲れてしまうと思うので、静かに楽しめる料理を混ぜ込んだり、ちょうど一枚の音楽のアルバムを作るような気持ちで、コース構成を行っている」という。
世界に分子料理学の流れを汲む店は多くあるが、牛窪氏は「自分の料理は、世界の『コンフォート・フード』、ほっとする味に基づいているものが多い」という。渡されるメニューは、牛窪氏の手書きのポップな筆致で「アメリカン BBQ」、インドの家庭料理「エッグマサラ」などと書かれ「こんな時期だからこそ、食で世界を旅するように楽しんで欲しい」という思いが反映されている。世界中を行き来するメニュー同様に、牛窪氏は自分のアイデンティティを、日本人やカナダ人ではなく、グローバル市民として捉えているという。
「友達には『宇宙人なんじゃない?』と言われるんです」と笑うが、『日本人』と言っても、一人ずつが異なった個性を持っているのと同じように、そもそも世の中の多くのものの『定義』は便宜上付けられたものにすぎない、ということに気づかされる。
そんな牛窪氏は「モラキュラーは、コースの流れや食材の組み合わせなどが自由なのが好き」で、枠組みを超えた自由なクリエイションを生み出したい、と考えている。
とはいえそれは、「根拠のない自由さ」ではない。実は若き日には東京の著名な三つ星フランス料理店で研鑽を積んだ牛窪氏。大切にしているのは、基本的な技法を丁寧に行った上でのクリエイションだ。
例えば、スペシャリテの「モントリオールに旅した和牛」(英語名:モントリオール スタイル ワギュウ)は、黒毛和牛のサーロインに、牛窪氏にとって故郷の味である、カナダのモントリオールでよく使われるスパイスミックス(ディルシード、パプリカ、コリアンダー、唐辛子、ガーリックパウダー、オニオンパウダーなどを混ぜたもの)をまぶし、52度で1時間低温調理して、味を染み込ませてからしっかりとグリルしたもの。ソースは、仔牛の骨や和牛の牛すじ、ミルポワで作ったフォンドボーベースで、2種類のワインとポルト酒、強めの黒コショウと、さらには隠し味にごく少量の醤油と味噌、メープルシロップが入っている。
さらに味の上で特徴的なのは、糖の使い方。カナダ出身らしく「子どもの頃から母がいつも砂糖の代わりにメープルシロップを使っていた」ということで、実は砂糖の甘味があまり得意でないそう。代わりに、メープルシロップや酒精強化ワイン、みりんや蜂蜜など、精製されていない甘味を使うことが多いという。そんな好みは、近年の健康志向にも自然と合ってきている。
スープは中華とフレンチの考えを合わせた作り方。今回使われていたのは海老のコンソメ 。赤海老、桜海老、オマールを軽くローストしてから玉ねぎやセロリの葉、利尻昆布を入れてダブルボイルドスープを作り、その後フランス料理の技法で、鳥のもも肉と海老のミンチと卵白を入れて、ミキサーにかけて、清澄する。こちらにも、最後にメープルシロップを入れて仕上げた。
「これから作っていきたいのは、ストーリーが浮かぶ皿。ARやVRも使ってみたいが、一番は人のイマジネーションの中で、感情がわき起こったり、世界観が感じられる料理」だという。
例えば、人類の歴史、という、忙しい毎日の中で忘れられがちな、普段はしないものの見方ができたりするのも、感情の一つ。そういった物語や景色が浮かぶ起爆剤としての食を「まずは、リラックスして楽しんでもらいたい」と語る牛窪氏。心を解放したその先に、豊かな感情と感覚の世界が待っている。
既成概念を覆すだけでなく、日常生活にない、感情や感覚の振り幅を楽しみ共有する場、それが新生「タパス モラキュラーバー」だと言えるだろう。
タパス モラキュラーバー
〒103-8328 東京都中央区日本橋室町2丁目1−1
マンダリン オリエンタル 東京38階
TEL: 0120-806-823
https://www.mandarinoriental.co.jp/tokyo/nihonbashi/fine-dining/restaurants/fusion-cuisine/tapas-molecular-bar
取材・文・撮影= 仲山今日子
仲山今日子
ワールド・レストラン・アワーズ審査員。元テレビ山梨、テレビ神奈川ニュースキャスター。シンガポール在住時、国営ラジオ局でDJとして勤務。世界約50ヶ国を訪ね、取材した飲食店や食文化について日本・シンガポール・イタリアなどの新聞・雑誌に執筆中。