ルポ写真の世界では名前が売れてきた佐伯ですが、これだけでは生活ができないために婦人誌の『婦人画報』の撮影を始めました。表紙からファッション、手芸、建築、ルポルタージュと依頼される写真は何でも撮りました。佐伯は「昭和20年代はとても食べ物を楽しめるような状態ではなく、名のある写真家が被写体として食べ物を選ぶなんて考えられない時代でした」と。食糧難の時代の育ちざかりを過ごした佐伯は戦後何年経っても料理の関心が持てずに、質より量という、お腹がいっぱいになればいいと考えていたそうだが、撮影を通じて多くの料理家達と出会うことになる。
戦後の日本で最初の料理サロンを作ったアートフラワーと料理の飯田深雪、江上料理学院の江上トミ、河野貞子、宮川敏子、柳原敏雄と一流の料理家と仕事をしていくうちに、料理の魅力と奥深さにひきこまれていく。
ハルコが後年佐伯スタジオに出入りして、スタジオの佐伯の弟子たちの躾のひとつとして、撮影した料理はすべて残さずに食べるという指導方針を知った時は佐伯の戦中、戦後の食に対して粗末に扱ってはならないということなのかと思った。ちなみに、ハルコがスタジオに通っていた時のアシスタントは佐伯スタジオに入所して体重が25キロも増加したのを覚えています。(これは、相撲部屋か)
そして、佐伯義勝に料理写真の神髄を教え、佐伯が料理写真の世界にのめりこんだのが京懐石の名店「辻留」主人辻嘉一との出会いなのです。昭和29年頃にその頃銀座にあった懐石料理「辻留」で父親(留次郎)から二代目を継承した嘉一さんは名料理人として評価も高く、裏千家の御用人も務めていました。
撮影は鮎の塩焼きで嘉一さんは「わしが持っていったらパッと撮れ。ええか、もたもたするな!」と怒鳴り声。佐伯は必死で準備していると行くぞと嘉一の大声がし、カメラの準備がまだ出来ていないのに嘉一は焼き上がりの鮎を持って突進し「はよう撮れ!料理が生きているうちに撮れ!」さらに「うまい瞬間をカメラにちゃんと食わせろ!」と佐伯の背中を叩いたのだそうです。
佐伯はなぜ鮎の塩焼きでこんなに大げさにするのか分からなかたそうですが、実は焼き魚は焼き上がりから数秒でふり塩が脂に溶けて見た目も食感も落ちていき瞬時に撮らないといけないことを知ったのです。この日のことで佐伯が生涯をかけて追及するテーマとなったのです。辻嘉一は生涯自分の料理写真は佐伯にしか撮らせなかったくらい佐伯を一番信頼する料理写真家として認めたのでした。