【戦後から昭和40年代】フランス料理の礎を築いたホテルの料理人たち(前編)


戦前、フランス料理を日本に伝えたスイス人がいた。いっぽう、それに呼応するように、料理人を渡欧修業させたホテルがあった。やがて戦後、東京五輪や大阪万博などを機に料理界も世界への扉を開き、都市ホテルでは本格的なフランス料理が供されるようになる。さまざまなところから集まってきた料理人たちを束ね、日本のフランス料理の基礎を確立していった「ホテルオークラ」の小野正吉、そして、厨房での古いしきたりを捨て、近代化を図った「帝国ホテル」の村上信夫。本場の味を日本に根付かせるために、料理人たちはたゆまぬ努力を続けていた。

一冊の古びたノートが、日本のフランス料理界黎明期の苦闘を物語っている。そのページを一枚一枚懐かしげにめくりながら、「ホテルオークラ」名誉総料理長の劔持恒男けんもつつねお は語る。

「このノートはムッシュ小野が書いたものです。日本にやってきたフランス人シェフのスペシャリテを仔細に観察して直筆で書かれました。なかには色付きの絵も描かれています。すでに国内では料理人の頂点に立ちながらも、本当に向学心に燃えたシェフでした」

“打倒帝国”に燃える、新興オークラの戦い

戦争の傷跡が癒え、まもなく高度成長期を迎えようとする昭和30年代中期。東京五輪の開催が決まった首都東京は、にわかにホテル建設ラッシュとなる。まだまだ街場には本格的なレストランが少なかった時代、今に続く日本のフランス料理界の扉を開けたのは、そうした高級ホテルのレストランだった。もちろんこの時代、明治23(1890)年開業の「帝国ホテル」の存在は大きかった。「パリはここにもある」と言われたほどエスコフィエ(※4)の教えに忠実に、絢爛たる料理の質を誇っていた。

帝国に負けるな――。新興ホテルの調理場に立つ者のたちは、「打倒帝国」を合言葉にした。真っ先にその狼煙のろし をあげたのが、ホテルオークラに集った小野正吉まさきちや劔持たちだった。

「私が入社した当時、うちの厨房はフランス語が主流

でした。なにせ開業4年目からフランス人シェフを雇っていたんですから、彼らについていくのが大変でした」

昭和36(1961)年入社の現総料理長・根岸規雄が苦笑する。オークラの創業者、大倉喜七郎(※2)と社長、野田岩次郎(※3)が掲げたのは「経営は米国式、料理は欧州式」のスタイルだった。レストラン内には米国からFBマネージャー(※4)が起用され、料理を出すタイミングや原材料のコストなどが厳重に管理された。調理場では、創業直後はさまざまなホテルからやってきた料理人の派閥が残っていたというが、それも年数を重ねるなかで、ひとつの流れに収斂されていく。その頂点に立ったのが、のちに帝国ホテルの料理長・村上信夫とともに日本のフランス料理界の「天皇」と呼ばれることになる小野だった。

小野が書いた料理ノート。イベントなどで海外のシェフが来日するたびに付きっきりになってメモを取っていたという。詳細な絵とメモもフランス語。

派閥をまとめ、本場の料理を吸収し、より高みへ

大正7(1932)年、横浜の小さな料理屋に生まれた小野は、14歳で虎ノ門の「東京倶楽部」調理場に職を得る。そこから西洋料理の修業を始め、戦前は有楽町にあった東京「ホテルニューグランド」でスイス人シェフ、サリー・ワイルの薫陶を受けた。昭和2(1927)年の「横浜ホテルニューグランド」の創業時から初代総料理長として活躍していたワイルは、フランス仕込みの本格的なエスコフィエ料理を日本に伝えたこの時代の第一人者だ。定食一辺倒だったホテルのダイニングにア・ラ・カルト料理を導入し、自らワゴンを押して料理をサービスした。調理場内でも、専門的に固定化した料理人の配置をローテーション化し、万能型の弟子を何人も輩出させる。その下からは、のちに「日活ホテル」の総料理長となる馬場久(※5)、「レストランキャッスル」の荒田勇作(※6)、「ピアジェ」の水口多喜男、銀座「エスコフィエ」の平田淳、「東京プリンスホテル」総料理長の木沢武男(※7)ら、幾多の名料理長が生まれている。

小野もまたそのひとり。料理界に燦然と輝くニューグランド系列に連なる料理人だった。

だからオークラでは、開業当初からワイル直伝のウインナー・シュニッツェルやビーフ・ストロガノフといったスイス料理、ドイツ料理のメニューもあった。また、多彩なオードブルも話題だった。

今も伝えられる小野のスペシャリテ

仔牛のピカタ

小野がオークラ時代にスペシャリテとして出していた料理。剱持が料理長をしていた当時の「エメラルドルーム」でも人気のメニューだった。

舌平目のクルスタード仕立てソース・ナンチュア

小野がニューグランド時代、サリー・ワイルの料理を継承したもの。サリー・ワイルが特別なときによく出していた料理。

(文中敬称略)

(※1)ジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエ
伝統的なフランス料理の大衆化・革新に貢献したひとり。調理法を体系化し、フランス料理現代化の先駆けとなる。また厨房各々のセクションにシェフ・ド・パルティ(部門シェフ)を置くことでシステム化し、フランス料理にコースメニューを導入した。

(※2)大倉喜七郎
男爵で大倉財閥2代目総帥。父は大倉財閥創始者の大倉喜八郎。その事業を引き継いで後の発展に努め、戦後の公職追放、財閥解体で帝国ホテルを手放すなど難局に直面しながら、ホテルオークラ、川奈ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。

(※3)野田岩次郎
第二次世界大戦後、連合軍占領統治下の日本で、持株会社整理委員会(HCLC)常務委員・委員長として財閥解体に当たる。HCLC解散後は、大倉喜七郎の要請により、ホテルオークラの立ち上げに参加。日本ホテルの国際化の礎を築いた。

(※4)FBマネージャー
ホテルでは飲食部門Food&Beverageを略し、FB部門と呼ぶ。その総括責任者。食材料・飲料の品質の維持管理と経費のコントロールをすることが使命。仕入れ品目とその量、使用量、在庫管理が正確に行われているかをチェックする

(※5)馬場久
戦後日比谷「日活ホテル」開業に当たり、料理長に就任。昭和39(1964)年東京オリンピック選手村総料理長。昭和51(1976)年、世界料理オリンピック日本選手団長として金メダルを獲得した。日活ホテル退社後、日航ホテル・インターナショナル調理顧問にも就任。

(※6)荒田勇作
戦前、横浜「フランスホテル」や「グランドホテル」、ワイルがいた「ホテルニューグランド」等の厨房を経験し、5人の外国人シェフの下で修業した。著書に『荒田西洋料理』がある。戦後、銀座「レストラン・アラスカ」料理長などを経て、全日本司厨士協会などの要職にあった。

(※7)木沢武男
昭和7(1932)年から厨房に入り、「東洋ホテル」、「東京ニューグランド」(数寄屋橋)等で働く。戦後は「銀座アラスカ」、「ホテルニュージャパン」等を経て、昭和42(1967)年東京プリンスホテル料理長に。その間入江茂忠、荒田勇作等に師事した。著書に『料理人と仕事〜いまヘスティアのかまどは…』がある

神山典士 = 文(こうやま・のりお)
ノンフィクション作家。1960年生まれ。96年『ライオンの夢、コンデ・コマ=前田光世伝』で小学館第三回ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。ほかに、本稿にも登場するサリー・ワイルの生涯をつづった『初代総料理長サリー・ワイル』(講談社)など著書多数。

長瀬ゆかり = 写真

本記事は雑誌料理王国155号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は155号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


SNSでフォローする