1970年代は、大阪・千里丘陵で開催された日本万国博覧会で幕を開けた。「もはや戦後ではない」と経済白書で謳われたのは1956(昭和31)年のこと。それから十数年、日本経済は急速に発展し、1971年12月には、四半世紀続いた1ドル360円から一挙に17%アップの1ドル308円となった。
そうしたなか、日本のフランス料理界も大きな転機をむかえた。1970年に「帝国ホテル」が「フォンテンブロー」を、3年後には「ホテルオークラ」が「ラ・ベル・エポック」をオープンさせたのだ。いずれも高級フランス料理の代表とされ、満席状態が続く。一方、1960年代に料理修業のためにフランスへ渡った料理人たちが続々と帰国。ホテルや街場のレストランで活躍し始めるのである。
73年には、パリやニースで修業してきた勝又登さんが、東京・西麻布に「ビストロ・ド・ラ・シテ」を開店させた。高価で敷居の高いフランス料理とは異なり、料理は一流ながら価格は手ごろ、気軽に入れるフレンチ・レストランとして人気を呼び、「ビストロ・ブーム」を巻き起こす。
翌年には銀座に「レカン」がオープン。のちに「シェ・イノ」を開く井上旭さんが、「トロワグロ」や「マキシム・ド・パリ」などでの修業を終え、76年から料理長として厨房を束ねた。また、井上さんのあとを継いで「レカン」の料理長となる城悦男さんも、スイスやフランス、ベルギー、西ドイツなどで修業をし、同年に「レカン」に入店している。
76年にオープンした六本木「ビストロ・ロテュース」の料理長を6年間務めた石鍋裕さん、77年に開店した広尾「プティポワン」のオーナーシェフ北岡尚信さん、同年開店の六本木「オー・シュヴァル・ブラン」で料理長を務めていた鎌田昭男さん……。現代日本のフランス料理界を代表するスターシェフたちが、本場の料理をひっさげて帰国し、腕をふるっていた。
「もちろん、僕たちの前に本場で勉強してきた人はいます。でも、ほんの一握り。フランスでフランス人からフランス料理を学び、それを日本に持ち込んだのは、僕らが最初の世代だと思います。実際、フランスでは軒くらいの店で働きましたけれど、日本人は初めてという店が半分ぐらいありました」と鎌田さんは当時を語る。
しかも、彼らが持ち帰ったのは、「エスコフィエの料理」ではなく、「ヌーベル・キュイジーヌ」と呼ばれる新しいスタイルの料理だった。だから注目度も俄然アップしたのだ。「1903年にエスコフィエが、フランス料理のバイブルといわれる『料理の手引き』を著しました。その後、1930年代に「ラ・ピラミッド」のポワンらが、エスコフィエの料理を受け継ぎながら、それを少しシンプルにして時代に合った料理へと改良しました。そして1960年代になると、それまでの料理をもっと軽くした『ヌーベル・キュイジーヌ』がフランス中を席巻するようになるわけです。こうやって見ていくとフランス料理はだいたい30年周期で変化しているように思います。僕らははからずも、ちょうどその過渡期に居合わせたのです」(鎌田さん) 素材の味わいを生かした新しいフランス料理は、日本人の嗜好にもあった。しかも、フランス帰りのシェフたちは、「本場で学んできた」という「武器」も 持っている。
1972年、海外旅行者数は100万人を突破。とりわけ20代女性の伸び率は突出していた。若い女性たちの海外旅行熱は、この頃前後して創刊された女性誌『アンアン』や『ノンノ』の海外旅行記事によってあおられ、海外旅行こそがファッショナブル、ともてはやされていた。
本格的な消費時代に移りつつあった社会情勢も手伝って、海外の香りをまとった本場仕込みの新しいフランス料理は、この時代に、一気に大輪の花を咲かせるのである。
山内章子=取材、文 富貴塚悠太=撮影
本記事は雑誌料理王国2013年8月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2013年8月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。