洞察力と革命心で、常に次代の香りを敏感に感じとる鎌田昭男さん。16歳で上京し、「洋食屋」からスタート。見習い時代は3500円の薄給だったが、お金を使う時間の余裕もなかったと話す。
12年間の修業後、渡欧。仏文学者、故山本直文氏から「大地の料理を語れなければ、フランス料理は語れない」とアドバイスを受け、パリはもとよりフランスの地方を精力的にまわった。「三ツ星はね、だいたいどこも価値観が同じ。でも地方に行くとビストロもブラッスリーもその土地の料理がいっぱいあって、料理の技法も味もすべて違う。これが勉強になるんですよ」
折しも鎌田さんがフランスで働いた70年代は、まさにヌーヴェル・キュイジーヌの風が吹き始めた頃だ。
「いま新しいと話題のフランス料理は、僕が当時体験した料理とさほど変わらないのよ。修業先の『パクトル』のジャック・マニエールだって、35年前にすでに刺身を出してたんだから」
フランスから帰国し「オー・シュヴァル・ブラン」では、日本のフランス料理史上はじめてポワソン・クリュ(刺身)を出して話題となったが、10種類のお菓子にすべてソースをつけるという、画期的な提供法も人気を呼んだ。
その後、「ホテル西洋銀座」の総料理長に抜擢されてホテル業界へ。そして現在1006室ある「東京ドームホテル」総料理長として指揮をとる。
「大きいホテルだからむずかしいということもありません。宴会やレストランなど、たくさんの「店」があると思って、日頃から細かく目を配って指導しています。自分の経験上、一度苦しい道を通ればやがて道が開けてくるので、若い人も逃げずに頑張ってほしいですね」
今はフランス料理の文化を伝える立場であることも意識している。常にフランス料理に危機感を持ち、世の中の空気を捉える。鎌田さんが最後に語った「過去に学び、現在に生きて、未来を読む」というメッセージは、日本のフランス料理業界へのオマージュだ。
トリュフをのせたドーヴァー産ヒラメのポワレとザリガニのソース・アメリケー ヌ。香味野菜をじっくり炒めるソフリットを使った野菜のタルタルに、卵を混ぜたソースをしいて「現在」を表現。そこに、ザリガニのミソを使った古典的なソース・アメリケーヌで「過去」をオーバーラップさせた。仕上げにトリュフジュースとマッシュルームジュース、魚のだしを加えた軽いクリームソースの泡で「未来」を表現。
’43 茨城県に生まれる。
’65 レストラン「クレッセント」、銀座日航ホテル、帝国ホテルなどで修業。
’71 渡欧。スイス「ホテル・ベルビュー」、フランス「オテル・ド・パリ」、パリ「パクトル」、「クロコディル」で修業。「ムーラン・ド・ムージャン」ではアラン・デュカスとともに働く。
’77 帰国。六本木「オー・シュヴァル・ブラン」の料理長に就任。
’86 「ホテル西洋銀座」総料理長に就任。
’00 「東京ドームホテル」調理統括シェフに就任。
’04 常務取締役 総料理長に就任。
text by Kanami Okimura/photographs by Yuko Uehara
「オーベルジュ」というフランス語を日本に広めたのは勝又登さんといっていいだろう。21年前、当時の超人気店「ビストロ・ド・ラ・シテ」と「オー・シザーブル」を率いていた有名シェフ・勝又さんが、箱根へ移住し、「宿泊できるレストラン」を開店。食業界で大ニュースとなった。
「フランスには、地方にも料理の神様がいた。何百キロ離れていようが、フランス人は神様の店をめざす。『ジョルジュ・ブラン』、『ムーラン・ド・ムージャン』……。それを見て、いつか僕もと、ときめいた。あの熱い思いを実現させたかった」と、当時を振り返る。大成功した2軒の店を譲渡し、新天地へ。失敗したらゼロに戻ってスペインへ移住すればいいと思った。
箱根を選んだ理由は、東京からアクセスがよく、ドライブでも疲れない100キロ圏内にあり、昔ながらの別荘地で、勝又さん自身も好きでよく訪れていたから、という。「食材に惹き寄せられて移住したの?」とよく尋ねられたが、「よい素材に惹かれたのではなくて、食材づくりがしやすい土地だったんです。海が近く、山もある。安全な食材をレストランのためにつくってくれる生産者を見つけられるかがポイントでした」。東京時代、稼いだお金をパリや京都の食べ歩きや器につぎ込み、一流のものを見て培った審美眼で調度品を選んだ。
現在は、本館に加えて、結婚式もできる「パヴィヨン」、バリテイストを採り入れた「コロニアル」の3つの館で構成されている。心地よい風がそよぐ初夏、木々に囲まれた庭での食事風景はさながら南仏のオーベルジュ。本物の味わいは、年月を経てさらに磨かれ、輝きを放つ魅力的な空間となった。今年中に「ギャラリー・ミラドー」をオープン予定。スペシャリテを満喫できるシェフズテーブルとパティスリーができる。「全国区レベルのフランス料理が、日本でも地方にあることをもっと知ってほしい」。勝又さんはまだまだ走り続けるつもりだ。
オープン当初から協力し、みごとな野菜を育て続けてくれている三島の広川さんの野菜と芦ノ湖のマスに、フォワグラを合わせた。ハーブのクリームをソースに、野菜チップを合わせ、食感の楽しさもプラス。「古きものに新しきものがある」というシェフの持論どおりに、伝統的なテリーヌを新しい素材の組み合わせで構築している。
’46 静岡県富士市に生まれる。
’63 料理の世界に入る。
’69 渡欧し、オランダ、パリ、ニースで修業し、帰国。
’73 西麻布「ビストロ・ド・ラ・シテ」開店。ビストロブームを巻き起こす。
’78 六本木「レストラン オー・シザーブル」開店。
’86 2軒とも、現オーナーに譲り、箱根の国立公園内に、日本初のオーベルジュを開店。
’97 別館「パヴィヨン・ミラドー」併設。
’04 別館「コロニアル・ミラドー」併設。
text by Mika Kitamura/photographs by Yuko Uehara
今こそビストロは数あれど、それが25年前であれば話は変わってくる。フランス料理といえばまだまだ高嶺の花、フランスでしっかり基礎を学んできた料理人としては、ハレの舞台である高級なレストランをめざすほうが多数派だったことだろう。しかし青木さんは違った。自分で店を出すにあたっては最初から、上質なビストロを目指していたという。
「フランスには、星は付かないかもしれないけれど、実直な料理を出し、地元の人で賑わう店が多いんです。とてもいいなあって思いましたね。もちろんプロとしてきちんとした料理を出すのは大前提だけど、それよりも、訪れた人が料理を食べ進むうちに心がほぐれ、会話が弾む、自分の店がそんな場になればと。その思いはオープン当初から変わっていません」
その願い通り、オープン当初やバブルの頃こそ一見客が多かったが、現在、大半は地元客で、開店当時から通っている人が圧倒的だとか。
そして青木さんにはもうひとつのこだわりがある。それはすべてのプロセスにおいて、自分で料理を手がけること。現在、青木さんはひとりで厨房に立っている。フランス料理店がぐっと身近な存在になったバブルの頃は「オー・プティパリ」も最繁期。厨房スタッフを4人抱えていたこともあるが、できる限り自分が手をかけた料理を供したいという思いから、スタッフを採用しなくなったという。「10数年前からはパンも手づくりでやっています。ソースづくりもデザートもすべて自分でやるから大変といえば大変。でも今がいちばん充実しています。そして人を雇わない分、コストはぐんと抑えられるでしょう。うちは地域密着型だから、できるだけ安くてうまいものをつくらないとね」。
外装や内装はオープン以来、ほとんど変わっていない。席は24席あるが、今後、昼は10席、夜は6席ぐらいまで減らして、〝青木実の料理〞を追求していきたいという。
青木さんが「トゥール・ガスコン」での修業時代、肉と魚を合わせてタネに使うことに驚いたというメニューをアレンジ。豚ひき肉と金目鯛のミンチでホタテ貝をくるみ、クレピーヌで包んで火を通したもので、オープン以来人気のひと皿。フランス料理の要はソースと青木さん。フォン・ド・ヴォライユ、ポルト酒、コニャックを煮詰めたソースをたっぷりかける。
’49 東京・渋谷に生まれる。
’69 有楽町「グリル・トーキョー」で料理人としてのキャリアをスタート。
’75 渡仏。約4年間にわたって、パリの「トゥール・ガスコン」「ラセール」、
トゥールーズ「ヴァネル」などのレストランで修業。
’80 帰国。「ルコント」「リュウ・ド・パリ」で働く。
’83 オーナーシェフとして「オー・プティパリ」をオープン。
text by Noriko Hane/photographs by Kazuo Kikuchi
本記事は雑誌料理王国155号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は155号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。