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【日本におけるフランス料理】語りたい100年史のひと皿3選(オテル・ドゥ・ミクニ、クイーン・アリス、KIHACHI)


進化を繰り返し、独創的な皿を生み出し続ける

オテル・ドゥ・ミクニ 三國清三さん

日夜、鍋磨きに励んだ10代の頃。「当時帝国ホテルの厨房はライバルが500人。生き残るのに必死だった」。三國清三さんが20歳の時、当時の料理長の村上信夫さんの推薦でスイス、フランスでの料理修業が始まる。「10年経ったら必ず君たちの時代が来る。それまではできる限り勉強し、吸収し、技術を磨くこと」。村上さんに言われ、それを守った。以後、8年後に帰国するまでは、天才といわれるシェフたちの元で修業。帰国2年後の1985年、四ツ谷の住宅街の一角に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開く。村上さんの言葉を胸に、30歳で店を出すと決めていたからだ。

「当時はものすごくとんがっていたから、料理も、どうだ、これは食べたことないだろう、と挑戦的だった」。瞬く間に評判になるが、同時に斬新な料理が評論家からバッシングを受ける。「ずいぶん悔しい思いもしました。今思えば、ちょっと先を行きすぎていたんでしょうね」。やがて国内より先に、海外が三國さんの料理を認めはじめ、日本にその評判が逆輸入される形に。さらに40代に入ると、三國さんは自分のスタイルを大きく変えるきっかけを得る。「京都の『瓢亭』を訪れた時、和食の世界に学び直すことがたくさんあったんです。料理、サービス、空間の居心地など、あらゆることがヒントになりました。シェフ自身がレストランの〝ブランド〞であり続けるには、変化や進化が重要。だから、僕にとってはうれしい転換期でした」

今年で開店23年目を迎える。「〝自然派創作三國料理〞と銘打っているように、僕の料理は〝いかにものフレンチ〞ではない。和の食材や調味料はもちろん、聞いたこともないおもしろい食材もどんどん取り入れる。メニューを考える時間は、ときに楽しく、ときに苦しい。なんだか最近、料理人って、新しいネタを探しながら生涯修業を続ける落語家みたいだな、と思うんですよ」。

旬の食材の自然なおいしさを生かしきった、驚きのある料理

フォアグラ・ドゥ・カナールの温製と長ナスのコンフィ合え、ムッシュー・ハインリヒゾーン

フォワグラの温製部分は、恩師フレディ・ジラルデの代表的なスタイル。ナスとの組み合わせは三國さんのアレンジ。さらに今の季節、夏の限られた時期にだけ味わえる京都の特別な加茂ナスを合わせている。「希少な原種を大切に育てる京都の生産者とは、僕が和にヒントを得た頃からの長いお付き合い。食材の育つ場所や生産者の顔を知ることは、食材を選ぶ上でもっとも大切にしていることのひとつです」。加茂ナス好きな食通のドイツ人常連客の名前をメニュー名に掲げた。

chef’s history

’54 北海道・増毛に生まれる。
’69 「札幌グランドホテル」で料理人のキャリアをスタート。
’72 村上信夫さんを訪ね、「帝国ホテル」で修業。
’74 スイス・ジュネーブ日本大使館の料理長に推薦され海外へ。大使館勤務の傍ら、ローザンヌにあるフレディ・ジラルデの「ジラルデ」で働く。その後「トロワグロ」「オーベルジュ・ドゥ・リル」「ロアジス」「アラン・シャペル」で修業。
’82 帰国し、市ヶ谷「ビストロ・サカナザ」で働く。
’85 オーナーシェフとして「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープン。

text by Saori Bada/photographs by Masaru Suzuki

夢中で働き、技術とセンスを磨いたからこそ今がある

クイーン・アリス 石鍋 裕さん

「ビフテキについてるクレソンって本当にうまいと思うか?」1968年、当時、数少ないフランス料理店のひとつ「キャラバンサライ」ゆたかで働いていた20歳の石鍋裕さんは同僚にたずねた。人が当然と見過ごすものに目を留め、疑問に思う。「いっそ、もっとたっぷりつけるか、ソースに仕立てればいいんだよ」。後年、クレソンのソースは彼のスペシャリテになる。

掃除を終えるといったん同僚たちと店を出るが、夜中11時半頃またひとりで店に戻る。それから、『エスコフィエ』の料理をひとつずつ試作していった。「ソースには、何種かの基本形があって、あとはそのバリエーションだというのがわかってきました」

あるとき、先輩たちが一気に他店に引き抜かれた。石鍋さんはいきなり料理長になる。「しめた」と思って、一週間ですべてのソースを変えてしまった。まだ非常に高価だった仔牛の骨を仕入れて、本格的なフォン・ド・ヴォーをつくる。そのままシチューになりそうな濃いだしになったそうだ。

石鍋さんには卓越した店づくりのセンスと技量がある。これも、若い頃からのものだ。69年、六本木の「フレール・ジャック」に入店。フランス人シェフ、ジャック・ボリーさんが来日して開いた話題の店だ。石鍋さんの貢献で、3カ月で売り上げは3倍になった。70年の大阪万博では、ブルガリア館のレストランでウェイターをする。人気のメニューは決まっているので、先にオーダーを入れてしまう。料理を待つ間に飲み物をすすめる。石鍋さんのチームは毎日、ダントツの売り上げを記録した。一緒に働いた学生アルバイトたちは、のちに食品輸入会社の幹部となり、石鍋さんと再会する。

71年、渡仏。「あの頃から、石鍋さんには華があった」と、フランスでともに修業したことのあるシェフが語っていた。人を驚かせ、喜ばせ、引きつける力。その陰には、深夜、ひとりで『エスコフィエ』片手に格闘した努力がある。

濃厚でうま味のあるソースをシンプルかつ合理的なつくり方で

フリカッセ・ド・オマール

オープン当初から協力し、みごとな野菜を育て続けてくれている三島の広川さんの野菜と芦ノ湖のマス「クイーン・アリス」らしい楽しさに満ちた、見た目も華やかなスペシャリテ。 ソースはエビのエキスやオマールの頭をミキサーにかけ、水を加えて一気に煮詰め、野菜のブイヨン、ほんの少しのクリームやバターを加えたもの。エビの風味が濃厚で、しっかりとした味わいがある。この方法なら、手間のかかるソース・アメリケーヌが簡単に、しかも100パーセントおいしくつくれる。 本質をつかみ、合理的に、一気に目的地に至るのが石鍋流だ。に、フォワグラを合わせた。ハーブのクリームをソースに、野菜チップを合わせ、食感の楽しさもプラス。「古きものに新しきものがある」というシェフの持論どおりに、伝統的なテリーヌを新しい素材の組み合わせで構築している。

chef’s history

’48 横浜に生まれる。
’63 伯父の経営する「イタリアン・ガーデン」の厨房でアルバイト。
’68 六本木「キャラバンサライ」などで働く。
’71 渡仏。「パヴィヨン・ロワイヤル」「マキシム」「シェ・ドニ」などで6年間修業。
’76 六本木「ビストロ・ロテュース」総料理長に。
’82 西麻布に「クイーン・アリス」を開店。現在 レストランの総合プロデューサーとしても活躍。

text by Hisae Nakashima/photographs by Haruko Amagata

日本発無国籍料理で、グローバルを視野に

KIHACHI 熊谷喜八さん

全国に56店舗あるキハチグループの総料理長であり、代表でもある熊谷喜八さん。パリのジョエル・ロブションのもとで働き、帰国後は一流店の料理長として腕をふるった。技術指導に訪れた台湾で自身が知り得たフランス料理の知識に限界を感じ、フレンチベースに、世界中どこででも通用する日本最強の洋食をつくりたいと、キハチ流無国籍料理を編み出した。40歳のとき、サザビーリーグ社長の鈴木陸三さんとの共同経営で、無国籍料理店「KIHACHI」を開店。その頃『美かりや味しんぼ』の作者・雁屋哲さんと出会い、食の安全性が大事であることに気づかされた。南青山店の地下に、無農薬野菜や無添加調味料、産地直送の魚介などが買えるマーケットを併設。当時としては、すべてが画期的で新鮮だった。その「KIHACHI」も今年、創業20年。銀座の本店を大々的にリニューアルした。自分たちの原点を見直して、「素材に戻ろう」と、新たな方向性で展開する。「日本の食業界は30年前から本物をめざし、フレンチやイタリアンは本場により近づきました。技術では本場を超えるほど。最近は、本質志向、すなわちいっそうの上質さを求めるようになってきています。うちの料理もそろそろ方向転換の時期。もっと引き算をして、素材の味が明確に伝わる料理をつくっていきます」。

熊谷さんの頭のなかには、常に世界戦略がある。レストランをつくるときも「この店を海外に持っていったらどうだろう」といつもグローバルスタンダードを意識しながら、店づくりをしてきた。いっぽうでそろそろ、後継者も育てなければと真剣に考え始めた。「ここ数年、自分の気持ちが少し停滞していたかもしれない。今年から、また本腰を入れています。上場できるくらいの会社にしなければ、と思っていますし、1100人ほどの部下を引っ張っていくには、強いリーダーシップが必要。私は切り込み隊長です(笑)。」と意気軒昂。今年は熊谷さんから目が離せない。

素材感を生かす自分の原点20年間続く定番メニュー

オマールのスパイス炒め

「KIHACHI」オープンの頃、話題になった一品。当時、フランス料理ではソースのない料理はほとんど存在しなかったことや、トウガラシやクミンなどのスパイスを使うことも斬新だった。このミックススパイスを完成させるのに、 熊谷さんは2年も費やした。

chef’s history

’46 東京・向島に生まれる。
’69 アフリカ・セネガル日本大使館料理長となる。
’72 パリへ渡り、「マキシム」などで修業。
’74 パリのホテルでジョエル・ロブションのもとで働く。
’75 高樹町「シルバースプーン」料理長となる。
’77 葉山「ラ・マーレ・ド・チャヤ」総料理長。
’86 サザビーリーグと共同出資でキハチアンドエスを設立。
’87 南青山に「KIHACHI」オープン。

text by Mika Kitamura/photographs by Kazuo Kikuchi

本記事は雑誌料理王国155号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は155号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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