日本の西洋料理がフランス料理へと変貌を遂げるにあたっては、鍵となる店が存在した。その役割をになったひとつが、今なお語り継がれているレストラン「花の木」。この店が西洋料理からフランス料理への前奏曲となり、多くの著名な料理人を育み、世に送り出したのだ。そして、パリからやって来た「マキシム・ド・パリ」こそ、日本のレストランに大きな衝撃を与えたといっていいだろう。ここでは50年代から70年代末にかけて、日本のフランス料理レストランの変遷をたどってみる。
女優の高峰秀子と映画監督の松山善三が東京霞ヶ関のチャペルセンターで結婚式を挙げたのは、昭和30(1955)年の3月26日のことだ。仲人は木下恵介監督と作家の川口松太郎。披露宴は銀座4丁目、和光裏の名古屋会館の地下にあったレストラン「メイゾン・シド」だった。今ではごく当たり前になったレストラン・ウエディングだが、まちなかその当時に街中のレストランで披露宴を開くのはきわめて珍しく、店の前には大勢のファンが押しかけて大騒ぎになった。シェフは、志度(しど)藤雄。明治34(01)年、香川県の三本松に生まれた。小学校を卒業するとすぐに神戸の洋食屋で働き始める。大正10(21)年、20歳で京都の「萬葉軒」に入り、ヨーロッパに渡ることを夢みる。料理人として欧州航路の客船「香取丸」に乗り込み、ロンドンに着くと予定通り出発直前に船から脱走して町に消えた。
結局、不法入国で逮捕され、強制退去処分となった。「香取丸」へ乗せられて日本へ帰ることになったが、そのまま帰国したのでは今までの苦労が水の泡になってしまう。マルセイユへ寄港した際、また抜け出してようやくパリへたどり着いた。「ホテル・ムーリス」など修業時代の詳細は割愛するが、当時の駐英大使だった吉田茂元首相や重光葵元外相に可愛がられた。第二次世界大戦が始まったので帰国、銀座で「日動グリル」を開店するが、戦火は拡大する一方で、中国に渡り終戦を迎えた。昭和25(50)年の10月に吉田茂、麻生太賀吉、石橋正二郎などの尽力を受けて、「メイゾン・シド」を開店し、高峰、松山夫妻の披露宴につながるのだ。昭和31(56)年には、銀座の「花の木」というレストランのシェフとなる。その頃は「軒」とか「亭」とかいった名前が多かったから、「花の木」は、名前からして新鮮な印象を与えた。
当時フランス料理というよりも、実態は西洋料理というべき店は銀座周辺をみても「アラスカ」、「三笠会館」、「資生堂」、ドイツ料理の「ローマイヤ」、「ケテル」くらいしかなかった。他には「帝国ホテル」や「丸の内ホテル」などのホテルに、「精養軒」や「東京會鐐」といった程度だった。「花の木」の誕生は、いままでの「西洋料理」から「フランス料理」に変わっていく前奏曲だったといえるだろう。志度は、その頃クープ型のシャンパングラスに冷たいコンソメスープと白いヴィシソワーズを重ねる「パリ・ソワール(パリの黄昏)」を創案した。
やがて赤坂のTBS会館の地下に出来た「レストラン・シド」の調理長に迎えられる。当時のTBS社長、今道潤三のアイデアで内装は緑と茶色を基調とし、落ち着いた北欧風だった。後に数寄屋橋の東芝ビルの「四季」に移り、赤坂の「クレール・ド・赤坂」の顧問を最後に引退する。「花の木」時代には、川瀬勝博(「クレッセント」=芝)、原敏雄(「クレール・ド・赤坂」)、扇谷正太郎(「エヴァンタイユ」=渋谷)、高橋徳男(「レンガ屋」、「アピシウス」)などがスタッフの一員だった。
昭和32(57)年、芝の増上寺前に開業したレストラン「クレッセント」は、西洋美術商「三日月」が経営する木造二階建ての瀟洒な建物で、歩くと木の床が音を立てた。昭和43(68)年に五階建てのビルになったが、一軒家のレストランとしてはかなり古いほうだ。今でいう「隠れ家レストラン」の草分けといえるだろう。
シェフは志度の片腕だった川瀬勝博で、よく「花の木」の残党といわれた。経営者は維新後、日ただ本の軍医制度を確立した元陸軍軍医総監、石黒忠のり悳の直系だった。40年ほども前に、私はここで初めてフォワグラのテリーヌを食べた。作家の有吉佐和子や飯沢匡らが、お忍びで通うセレブの社交場で、財界人や各国の外交官の姿も多かった。
まだ六本木の交差点を路面電車の都電がクロスしていた昭和三十年代、渋谷から6番の都電は六本木から今井町、福吉町、溜池へと坂を下り、新橋へと向かう。福吉町あたりの右側に「レンガ屋」というレストランがあった。赤と白の格子のテーブルクロスが都電の中から目に付いた。
佐野繁次郎画伯が書いた独特の店名のレタリングと古風な灰皿が印象に残っている。そのセンスの良さは稲川慶子オーナーの趣味によるものだ。慶応大学の仏文科を卒業しパリで学んだオーナーは、清楚という文字がぴったりする黒のロングスカートと白のブラウスで、いつも店を差配していた。「三田文学」の遠藤周作や安岡章太郎らが、よく出入りしていた。
私が初めて殻つきのカキを食べたのが、「レンガ屋」だった。この店の二番手を務めていたのが、後に「アピシウス」のシェフとなる高橋徳男だ。フランス料理とはいっても今までの西洋料理を少しヨーロッパ風にした程度のもので、テリーヌやエスカルゴがある一方、ビーフシチュウ(牛肉の赤ワイン煮)という名前が残っていた記憶がある。やがて「レンガ屋」は銀座の六丁目、朝日ビルに移る。高橋は修業のため、フランスへ旅立った。
昭和39(64)年、東京オリンピックが開催され、立派に成功を収める。これを契機として日本の食生活は急激に変化し、昭和45(70)年の大阪万国博覧会で、その変容ぶりは頂点に達したといってもいいだろう。海外旅行も自由化され、多くの旅行者がワインに親しむフランスの食生活を目の当たりにしてきた。戦後の食糧欠乏時代から飽食の時代を迎えようとしていた。
その間の昭和41(66)年には数寄屋橋交差点の「ソニービル」にパリからやってきた「マキシム・ド・パリ」が華々しくオープンした。初代総料理長は浅野和夫(現顧問)。パリからは、シェフのピエール・トロワグロ以下、キッチンとサービスが五人ずつ。さらに楽団員までもが大挙してやってきた。
陸軍士官学校時代に終戦を迎えた浅野は京都の親戚が経営するレストランにいたが、妻を残してフランスに渡り、パリの日本大使館に勤務し、当時の古垣鉄郎駐仏大使(後の日本放送協会会長)の推薦を得て昭和35(60)年に「マキシム」に入った。ソース係の次席シェフまでいったが、帰国。京都のレストランで働いていたところを東京に呼び戻された。まさか、自分がパリで働いていた「マキシム」が東京にやってくるなどとは、夢にも思っていなかった。
内装や調度などは本店と同じアールヌーヴォー風で、客席の大きな鏡やロートレックの絵もそっくりだった。ソニー創業者の一人、盛田昭夫副社長(後に社長、会長)の熱意といってよい。しかし店は駐車場にする予定だった地下の二階と三階で、さる週刊誌には、「フランスで地下といえばトイレがあるところだ」などとからかわれたこともあった。しかし西銀座の地下駐車場二階にも入り口があり、排気ガスの臭いさえなければ、まさにパリの店の前の雰囲気だった。
ちょっと話は変わるが、資生堂の福原義春(現名誉会長)は、「歩いて道路から入れる一階のレストランが銀座にないのは寂しい」ということで、現在の「ロオジエ」をつくったともいわれる。
昭和41(66)年当時は、食材もフレッシュなフォワグラやトリュフなどは入手がむずかしく、リー・ド・ヴォー(仔牛の胸腺)やロニョン(腎臓)といった内臓類も使う店はほとんどなかった。野菜類もアンディーヴやエシャロットなど、名前を知らない人が多かった。
食事の途中で日本人が立ち上がって、ワインを日本酒のように献酬するのには、フランスから来たサービスのスタッフが目を丸くしたという。お客の目の前で料理を各人の皿に切り分け、盛り付ける「デクパージュ」は、実に新鮮に映った。それまでのレストランにはないサービスの方式だった。男性用と女性用で二種のメニューを置いたのも、マキシムが最初だと思う。女性用には値段が印刷されていない。価格を考えずに、好きなものを選びなさい、ということだ。もっとも私は女性用のメニューを渡されたこともあった。日本人スタッフは頭ではわかっていても、実技が追いつかなかったのだろう。
今の時代には女性差別だと文句をいう人がいるかもしれない、女の人が接待するケースも増えているからだ。食前酒として「キール」が流行し始めた頃で、スノッブな人たちのあいだで持てはやされた。メイン料理の後にチーズを食べる習慣もなかなか理解されなかったが、徐々に浸透していった。
「マキシム・ド・パリ東京」の開店は、フランスの食文化の中でも、「レストラン文化」の精髄を日本にもたらした。特にお客を楽しませる「サービス」の重要性と多彩な「デザート」の量の多さには、蒙ひらを啓かれたといっていい。現在のスイーツの隆盛も、ある意味では「マキシム」から始まったといえる面もあろう。まさに本場の「レストラン」が初めて上陸したわけで、それは飲食業界にとっての「黒船」であり、偉大な「指南役」でもあった。
吉行淳之介が昭和54(79)年に発表した短編小説『菓子祭』(講談社文芸文庫)は、故あって分かれ分かれに暮らしている実の父と娘がフランス料理を食べる話だ。娘が中学生になったとき一カ月に一度会って食事を一緒にするという決まりをつくったのだ。もちろん吉行自身の境遇といっていい。店名こそ記されていないが、「レンガ屋」を舞台としている。すでに六本木から銀座に移り、フランスを代表する料理人、ポール・ボキューズと提携していた。
ドライ・シェリーを食前酒に飲みながら父親は娘に「メニューというのはな、夕刊を読むように読んでいいんだよ」という。時間をかけて、自分の好みをはっきり主張しろと教えているのである。「オードブルは……、鴨のテリーヌにしようか。鴨の肝のペーストのようなものだ」とか、「仔牛の咽喉のところに、ぐりぐりしたかたまりがあってね、これをリ・ド・ヴォーというんだ。その料理でも、頼んでみるか」などと説明しながら、久しぶりに会った娘との会話を楽しんでいる。
近くのテーブルからは、銀座のホステスと思われる女性と彼女から電話で誘われたらしい男性の会話が聞こえてくる。いわゆる「同伴出勤」である。男は、「ローストビーフに、ワインの赤」と自信を持って頼む。この店には、ローストビーフはなかったはずだが、と父親は耳に入ってくる客の注文を分析している。女のほうは、「あたしは、自家製のフォアグラ、スープは蝦のビスク。それと帆立貝のムースと、それから鶉のソテエ」といかにも慣れた様子で、よどみなく注文した。
父親は、「彼女はこの店の料理をよく知っている」と感心するが、別に見ず知らずの男女のことを考えている場合ではない、と思い直す。小説はこのあと、どういうわけかサービスの黒服の男が娘に無理矢理デザートを食べさせようと、狂気とも思える会話と行動を起こし、父娘を困惑させる。
昭和四十年代の後半になると、フランスで修業していた高橋徳男(パ・マル)、井上旭(シェ・イノ)、石鍋裕(クイーン・アリス)、熊谷喜八(キハチ)などが帰国して、百花繚乱の「フレンチ・レストラン時代」が幕を開ける。
作家の渡辺淳一は、昭和44(69)年に行われた札幌医大の心臓移植手術の騒動で、医者から作家に専念することを決意し、札幌から単身で上京した。昭和59(84)年、日経新聞朝刊に連載した小説『化身』で、「クレッセント」を登場させている。文芸評論家の秋葉大三郎が大金を投じ、田舎臭さが抜けない霧子を洗練された一人前の女性に仕立て上げる物語で、霧子の25歳になる誕生日のお祝いの食事だ。「都内のほとんどの高級レストランが、銀座や赤坂のビルのなかにあるのに、ここだけは閑静な公園の茂みに囲まれ、煉瓦造りの落着いた建物である。
(略)
シャンパンを白のワインに変え、前菜に魚のマリーネとサーモンをもらい、スープを飲む。今日の霧子ならどこへ連れていっても見劣りしない。華奢な手にグラスを持って会話を楽しむ姿は、高級レストランの一角でそのまま絵になっている。」(集英社文庫)
渡辺淳一は、昔の「クレッセント」の木造時代を知らないはずだが、石黒忠悳のことは日本医史学会会員でもあるので、ことのほか関心があったのだろう。しかしその経営母体もいつのまにか変わり、予約制で夜だけの営業になってしまった。ここでは新聞の連載小説に、フランス料理の情景が違和感なく登場していることに着目すべきだろう。フランス料理とレストランの文化が日本の社会にゆっくりとではあるが、着実に普及し、定着していった過程が如実に見て取れるのではあるまいか。
中村勝宏(ホテルメトロポリタンエドモント)がパリの「ル・ブルドネ」で日本人シェフとして初のミシュランの星を取ったのは昭和54(79)年のことだ。
戦後に生まれ、ごく当たり前にパスポートを持ち、平常心でフランスへ修業に出かけた平松宏之(「レストランひらまつ」=81年帰国)や三國清三(「オテル・ドゥ・ミクニ」=83年帰国)らが目を見張るような活躍をするのは、もう少し後の時代になってからとなる。「マキシム」到来から20年を経て、世界に通用する日本人のフランス料理人が次々と誕生したのである。(敬称略)
パリの「マキシム」を語る上ではずせないのが、伝説のメートル・ドテル、アルベール。30年代から第二次世界大戦後も活躍し、低俗なものを排し「マキシムの客」になることの栄誉をつくり上げたという。彼が考案したのが「舌平目のブレゼ、アルベールソース」。今もサービスマンがテーブルでソースをつくり上げ、皿に盛ってくれる。
文・重金敦之
(しげかねあつゆき)文芸ジャーナリスト。朝日新聞社に在社中は名文芸記者として知られ、池波正太郎、松本清張、渡辺淳一らと交流を持つ。食の分野に造詣が深く『ソムリエ世界一田崎真也物語』『食の名文家たち』など著書多数。
本記事は雑誌料理王国155号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は155号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。