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ボキューズとトロワグロが見つめ、感じてきた日本


本記事は雑誌料理王国155号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は155号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。

フランス料理界に君臨するふたりの巨人は、遠き東洋の国、日本と深い親交を結んできた。ポール・ボキューズ、そしてピエール・トロワグロ――。彼らが見つめ、触れ、感じてきた遠い異国の食文化は、フランス料理界の潮流を左右するまでになったといっても過言ではない。揺るぎない影響力を持ち続ける巨人たちの脳裏に映る当時の日本の残像、そして現在のヴィジョンを語ってもらった。

ポール・ボキューズ

ヌーヴェル・キュイジーヌの背景に日本料理はあったのか?

世紀の料理人としてその名を世界に馳せるポール・ボキューズ。1960年以降のフランス料理は、彼の多大な影響なしに語ることはできない。1973年、アンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨによって、ヌーヴェル・キュイジーヌ宣言(29ページ参照)がなされたが、そうした気運を高めたのは、ひとえにポール・ボキューズの存在だったといっても過言ではあるまい。こんな逸話があった。65年、三ツ星になる直前、ゴーとミヨがレストランに訪れた。ボキューズは庭で育てていたサヤインゲンを摘んで、それを出した。くたくたに煮るのではなく、短時間でゆで、カリカリとした食感の仕立てで。それは、サヤインゲンの本来の味わいをたたえてすばらしかった(辻調グループ・リヨン校、中野広幸氏談)。素材の味わいやテクスチャーを尊重した、必要最低限のキュイッソン(火入れ)。それは、ヌーヴェル・キュイジーヌ宣言10カ条の項目にある。

64年の東京オリンピック、70年の大阪万国博覧会を境に、日本へ渡るフランスの料理人が増え、日本での舌の経験が、ヌーヴェル・キュイジーヌを生むきっかけになったともいう。短時間のキュイッソンも、和食の影響が大きいといわれた。しかし、「自分のキュイッソンは、エスコフィエ、フェルナン・ポワンの流れから必然的に生まれたもの」と言うポール・ボキューズ。その後、ボキューズは、ヌーヴェル・キュイジーヌからの脱却をも宣言している――。

レストランを囲む外壁の内側に描かれたフレスコ画。ポワン夫妻のほか、ボキューズにゆかりの深い人々が描かれているなか、ボキューズが賞賛してやまない辻静雄氏の姿も見える。

辻静雄との出会い、訪日、そして…

――日本との初めての出会いは?

PB 今は亡きムッシュー辻静雄との出会いです。レイモン・オリヴェ(*4)の紹介でこの店にやってきた。恩師であるフェルナン・ポワンのマダム、マドとの親交も深く、フランス料理の知識、それを伝えたいという情熱は、フランス人以上。伝統を守るべく行動する大切な人だと。大阪の辻調理師専門学校で講義をしてほしいという依頼に、即同意しました。それは70年前後だったかと思います(実際は72年・編集部注)。

――辻調における使命は?

PB エスコフィエによる古典フランス料理の基礎をプロ向けに講義することでした。「若鶏のヴェッシー風」、「スズキのクルート包み」などをつくったのを覚えています。第一回目は、ジャン=ポール・ラコンブ(*5)氏と一緒に行きましたが、おそらくわれわれが、日本で講義を行なった初めてのフランス人の料理人だったのでは?

忠実に再現したいだけに、材料が揃わず大変だった。フォワグラ、トリュフは仕方がないとして、質のよい肉が手に入らない。当時の日本には、「帝国ホテル」の村上信夫氏、「ホテルオークラ」の小野正吉氏など、優れた料理人がいらした。こうした状況で、立派なフランス料理をつくっていたのですから、尊敬に値することです。今年、国立新美術館内にオープンした「ブラッスリーポール・ボキューズミュゼ」では、ほぼ日本の素材で対応していますから、その変化には驚かざるを得ません。しかし、それも、我々がフランス料理を広めたことによる結果ともいえるのですがね(笑)。

――当時の生徒さんの反応は?

PB 日本人はとても慎み深い国民ですから、目立った手応えはなく、ミステリーでした(笑)。

その国を知るには市街に出る、というのが私の信条なので、大阪の下町をだいぶ歩きました。路地にたくさんの屋台が出ていて、そこでスーツ姿の男たちが群れて食べている。かと思えば、辻静雄氏に案内された「鐡兆」などの高級料亭もある。市場にも行って、魚の競りなどを見るのは、胸が高鳴った。混沌としたなかに、ダイナミズムを感じました。

フランス料理は蠢いている

――日本料理に影響を受けたことは?それが、ヌーヴェル・キュイジーヌの一端を担ったといわれます。

PB 私が日本の伝統文化を愛するのと、影響を受けるというのは別のことで、料理において、日本の影響を受けたというようなことはまったくありません。〝素材を尊重する〞という考えは、すでにフェルナン・ポワンの教えにあった。私の使命は、エスコフィエに遡るフランス料理の伝統を未来に伝えること。90年には、ポール・ボキューズ料理学院を創立していますし、辻調グループのリヨン校の開校にも、ひと肌脱いでいます。

私にとってのヌーヴェル・キュイジーヌとは、皿ではなく、シェフの立場に言及することになります。今まで厨房にしかいなかった料理人が、表に出て発言権を持つようになった。

――貴方が、フランス料理の象徴となり、伝道者たりうる……。

PB ヌーヴェル・キュイジーヌといわれる時代に、日本のエスプリがフランス料理に流れ込んだということは確かです。フランス料理に初めて、〝蒸し料理〞を導入したのは、パリ郊外のブジヴァル市「カメリア」のジャン・ドゥラヴェーヌ氏でした。そして、今や日本料理がフランス料理に与えている影響は多大です。

日本に訪れた当初は、これほど日本料理との交流が盛んになり、フランス料理の未来がその影響を受けるとは予想しなかった。日本という国が、いくら伝統文化を大切にするとしても、我々からは、ほど遠いところにある国だと思っていたからだ。より脂質の少ない、体にいい料理として、時代が求める理想の先に、日本料理があったのだと思います。

――フランス料理が、国籍のない料理になってしまうという心配は?

PB それはありません。見てください、フランスは豊かな農業国です。世界一の素材を誇る国だ。フランス料理は、よきものを取り入れて、成長し続けてきた文化です。日本料理に影響を受けている現在のフランス料理は、蠢いている。つまり進化形にある、というよいしるしです。素晴らしいことではありませんか?

ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領のための黒トリュフのスープ
1975年、料理人として初めてレジョン・ドヌール勲章を授かった際に、エリゼ宮で催された記念の午餐会で披露した料理。パイ皮を開けると、トリ ュフの香りが濃厚に漂う。濃いブロンド色のスー プにはフォワグラも浮かぶ贅沢な一品。

ピエール・トロワグロ

父から子へ。日本はいま、着実に継承された。

リヨンから北西90kmのところにあるロアンヌ市。ロアンヌ駅前にある「トロワグロ」は、ポール・ボキューズ、アラン・サンドランス(*1)、アラン・シャペルなどとともに、ヌーヴェル・キュイジーヌにひとつの潮流をもたらしたレストランの雄である。レストラン経営者で、料理に対して斬新な哲学を持っていた父ジャン=バティストのもとで育った、ピエール・トロワグロは、兄ジャンとともに、〝新しい世代による、新しい料理〞を推進してきた。三ツ星の栄光に輝いたのは68年。83年に兄ジャンを亡くしながらも、息子ミッシェルとともに、約40年間それを守り続けている。

トロワグロから巣立った料理人には、フレディ・ジラルデ(*2)やベルナール・ロワゾー(*3)など、偉大なシェフたちが名を連ねる。ピエールによると、「店の厨房で働いた日本人の料理人は、100人以上」だそうだ。ポール・ボキューズがフランス料理の法王なら、ピエール・トロワグロは、父といえようか。

66年冬に銀座「マキシム・ド・パリ」のオープニングシェフとして来日したピエール・トロワグロ。息子ミッシェルは、昨年秋、新宿の「センチュリーハイアット東京」に「キュイジーヌ ミッシェル・トロワグロ」をオープンし、日本料理への造詣の深さをも披露する。父から息子へと伝えられた日本は、何だったのだろう。

1966年銀座「マキシム・ド・パリ」のオープニングディナー。高松宮、 同妃殿下もご列席されたほど、当時の期待の大きさが伺われる。 料理はクラシックな大皿盛りのプレゼンテーションで供された。

銀座の地でパリの料理の忠実な再現を

――銀座「マキシム・ド・パリ」のオープニングシェフに選ばれたきっかけは?

PT パリ「マキシム」のソーシエを務めたことがあった。当時のシェフ、アレックス・アンベール氏が、私を認めてくれていたのでしょう。彼の推薦で、オーナーだったルイ・ヴィダーヴルからお話をいただきました。後日談で、私が選ばれた理由ですが、誰とでも打ち解けるという性格に白羽の矢が立ったようです(笑)。

当時、日本に行ったことのある料理人は少数でした。オリンピックも開催され、にわかに注目された東京。赴任の話は、身に余る光栄でしたが、妻も子もありましたし、店も二ツ星になったばかり。返答に困っていたら、父からGOサインが出ました。

――使命は何でしたか?

PT 当時、ホテルオークラや帝国ホテルなど、すぐれたフランス料理を出す店もありましたが、マキシムの狙いは、フランス人が料理長として手掛ける、パリのフランス料理を提供することでした。刺激的でしたが、困難も待ち受けていました。たとえば素材。フォワグラやトリュフ、チーズ、質のいい家禽類は手に入らないので、空輸で取り寄せた。野菜も、味わいが薄い印象。また、スフレの試作で、何度も失敗してしまうというアクシデントも。ひと晩考えたあげく、湿気のせいとわかって、粉の水分を飛ばしてからつくってみたら成功でした。また、日本人は、濃い味つけのものが苦手のよう。大根やワサビ、醤油など、濃い味わいのものを好んでいるのに、調理の段階で、味わいをつけるのに慣れていないのだろうと、ソースを煮つめるのを半分の加減にしたり。また、加熱調理の時間を短縮し、素材の味わいを大切にする調理も覚えました。

肌身に感じた日本文化

――当時の日本はいかがでしたか?

PT 今と違って、エキゾチシズムがありました。女性たちの大半は着物でしたし、東の果ての国という印象でした。しかし、相手を尊重する、礼儀のある国民性に心を打たれました。

日本料理との出会いも刺激的でした。フランスなら、料理はコースで食べる。料亭にはそうした流れがありますが、天ぷら屋、しゃぶしゃぶ屋、すし屋では、それだけを出して、高級店になりうる。また、ひと皿の量の少なさも驚きでした。

66年といえば、ヌーヴェル・キュイジーヌ宣言前夜である以上に、学生運動前夜です。皆が表現の自由を求める気運に満ちていたのです。私たち料理人も同じでした。それまでは、エスコフィエというコード化された料理にがんじがらめだった。それから離れることは、一種の反乱。しかし、時代は自由を求めていた。そんな時代、日本に滞在するという僥倖を得た。私に大きなインパクトを残したことに間違いはありません。

――フランスに戻ってから、ご自分の料理に変化がありましたか?

PT 実はスペシャリテ「鮭のエスカロップ、オゼイユ風味」の加熱調理は、日本料理から影響を受けたものです。テフロン加工のフライパンを使い、油を使わず、中がふんわりと仕上がるくらいの、短いキュイッソンに抑えたのです。鮭のデクパージュも、従来の厚切りの切り身ではなく、薄く切り開いています。オリーブオイルとレモンでマリネした生の鮭も出すという挑戦もしましたし、さまざまな野菜のカリカリとした食感を楽しむ「ミュルティコロール」という料理も、日本の漬け物などからインスピレーションを得たものです。

――「センチュリーハイアット東京」で活躍しているご子息のミッシェル氏も日本への造詣が深く、日本料理を取り入れる工夫をされています。

PT 料理も他の芸術と同じように、時代によって移り変わる。より軽く、健康にいいものを求める時代、ミッシェルが日本料理を取り入れるという選択をしたのでしょう。彼は〝ZEN〞という言葉をよく使いますが、シンプルで心穏やかになる料理をつくりたいようです。そんな料理を東京で出しているのでは?

最近の東京は、フランス料理店が溢れています。このなかで若い人が残っていくのは過酷です。基礎をしっかり身につけ、コピーではない自分の料理を見つけていくことです。

東京は緑が少ないですね。自然のなかに身を置くこと。その大切さをロアンヌに戻って来ると感じます。

オリジナルレシピによる、鮭のエスカロップ、オゼイユ風味
「トロワグロ」の伝説的料理。エシャロットを白ワインで煮つめて、魚のフュメ、クリームを加え、オゼイユを入れたものをソースとし、フライパンでさっと火を通した鮭のエスカロップをのせた。息子ミッ シェルが解釈した新しいレシピの料理もある。

Paul Bocuse
1926年生まれ。「メール・ブラジエ」、フェルナン・ポワンの「ピラミッド」などを経て、59年父の「レストラン・デュ・ポン・ドゥ・コロンジュ」を継ぐ。61年にはMOF(フランス最優秀技術者賞)を、65年には三ツ星を獲得。辻静雄氏との交流が深く、72年より講義のために来日を繰り返す。銀座「レンガ屋」、 「ル・マエストロ・ポール・ボキューズ・トーキョー」、 大丸パン店「ポール・ボキューズ」(現行)の顧問を務める。2007年1月、「ひらまつ」との提携で、国立新美術館内に「ブラッスリー ポール・ボキュー ズ ミュゼ」をオープン。

Pierre Troisgros
1928年生まれ。ガストン・リシャール率いる「ルカ・カルトン」、フェルナン・ポワンの「ピラミッド」などを経て、53年故郷のロアンヌに戻り、兄ジャンとともに父の店を引き継ぎ、「トロワグロ」としてオープンする。 66年冬より5カ月間、銀座「マキシム」のオープニングシェフとして来日。68年には三ツ星を獲得する。 84年より、小田急百貨店と提携。息子ミッシェルは、 昨年の秋、「センチュリーハイアット東京」に「キュイジーヌ[s] ミッシェル・トロワグロ」をオープンした。


(*1)旧「ルカ・カルトン」、現「アラン・サンドランス」のシェフ。28年間三ツ星。昨年三ツ星を返上。
(*2)スイスで初めて三ツ星を得た。1996年に引退。
(*3)ブルゴーニュ・ソーリューにて1991年に三ツ星を獲得。2003年自殺を図り、レストラン業界に衝撃がはしった。
(*4)1948〜84年「グラン・ヴェフール」の料理長を務める。30年間三ツ星。
(*5)リヨン「レオン・ド・リヨン」のシェフ。二ツ星。

伊藤文(在パリ)=文、上仲正寿(在パリ)=写真

本記事は雑誌料理王国155号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は155号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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