どっしりと重い木の扉を開けると、そこは日本が誇るグランメゾンだ。アールヌーヴォー調で、華やかながらも落ち着いた雰囲気。スタッフの的確な受け答えや心からの笑顔に接すれば、ここのボスがどんなに素晴らしいかわかるというもの。「ソースの神様」といわれたジャン・トロワグロの薫陶を受けた井上旭さんがその人。「素材とソースのハーモニーこそフランス料理」が、信念だ。井上さんの料理は、その芳醇なソースなしには語れない。「いちばん力を入れているのはソースです。ソースには、コクとまろやかさがなければいけない。うちの料理の原価率は40%を越えるときもあります」。
シェフの熱い思いはとどまるところを知らない。「ワインと合わせて双方の味が際立ったときの驚きや、テーブルでの会話といった、フレンチならではの楽しみを充分味わえる料理をつくり続けたい」。
30数年前、パリの「マキシム」や、ロアンヌの「トロワグロ」で働いた。とくにマキシムは、食材や器、サービス、インテリア、お客に至るまで、一流とはどういうことかを教えてくれた。厨房で、自分だったら、こうもしたい、ああもしたいという思いを募らせていた。帰国後、その思いが一気に噴き出す。代表作のひとつが「マリア・カラス」。マキシムに通ってきていた往年の名歌手にちなんで命名。原型は古典料理の「ブッフ・ウェリントン(牛フィレ肉のパイ包み)」。当時はなかなか手に入らなかった仔羊のおいしさを日本人に知ってほしいという思いでつくり上げた。開店以来の定番で、いまも毎日、必ずオーダーが入る。
40数年間、心を込めて料理をつくり続けるいっぽう、熱心に弟子を育ててきた。「うまいものを後世に残す義務があると思っています。後進を育てることもその一環。私?もちろん、これから、ひと花もふた花も咲かせますよ」と色っぽく語った。
トリュフとフォワグラ、デュクセル(きざんだシャンピニヨン、タマネギ、エシャロ ットをバターで炒めたもの)とともに仔羊をパイで包み、ロースト。コニャック、 ポルト酒、マデラ酒とフォン・ド・ヴォーでつないだものにトリュフを加えた濃厚なソース・ペリグーで。芳醇な香りを楽しんでもらう。
’45 鳥取県に生まれる。
’66 渡欧。スイス、ドイツ、ベルギーを経て、フランスにわたり「トロワグロ」、「マキシム」で修業。
’72 帰国。
’76 銀座「レカン」料理長。
’79 京橋「ドゥ・ロアンヌ」開店。
’84 京橋「シェ・イノ」開店。
text by Mika Kitamura/photographs by Kazuo Kikuchi
本記事は雑誌料理王国155号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は155号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。