吉村博光(よしむらひろみつ)
大学卒業後、出版取次トーハンで25年間勤務。現在は、HONZや週刊朝日などで書評を執筆中である。生まれは長崎で、ルーツは佐賀。幼少期は福砂屋のカステラ、長じては吉野屋の白玉饅頭が大好物。美食家だった父は、全国各地へ出張するたびに本や名産品を買ってきた。結果として本とグルメに目がなくなり、人呼んで“美食書評家”に。「読んで、食らう」愉しみを皆様にお届けしたい。
本書を読んで、私はすぐに席を立った。1988年にニューヨークの片隅で生まれたクラフトビールを買いに行こう。わが街の片隅にある酒屋に置いてあるかどうかはわからない。でもまずは、その奇跡に賭けてみたい。そのこだわりのつまったパッケージを眺め、多くの人に愛されているビールで喉を潤したい。そう思った。
そして、そのビールは店にあった。戦場ジャーナリストとして現地を取材してきた著者がニューヨークに戻り、中東でおぼえたホームブルーイング(自宅でビールを作ること)を実践し、ブルックリンのビール製造の歴史と西海岸でブームになりつつあったクラフトビールを結びつけて着想した、このブルックリンラガーが時を越え海を渡り手元に届いた。
この本は、もう私の宝物だ。著者が起こしたブルックリンブルワリーが成功を収めたのは、デザインの力が大きかった。資本力のない起業家でありながら、一流デザイナーを口説き落としてロゴを作ってもらった。そのロゴが次々に扉を開いていくのだ。本書はデザインにこだわった作りで、紙も活字も装丁も大変な凝りようだ。私も本棚にずっと置いておきたいと思っている。
お金では動かない一流デザイナーが協力してくれたのも、ジャーナリストとしての彼が紡ぎだす言葉の魅力があった。当時ニューヨークでは、コーンなどの混ざりものが入った大量生産のビールがほとんどで、本物の味と多様性が求められていた。さらに著者の胸の中には、荒廃したブルックリン再興への熱い思いがあったのである。
著者独自の問題設定力と企画力そして元ジャーナリストとしての表現力が、一流デザイナーの心を動かした。そしてこの本は、その輝きをすべて詰め込んでパッケージにしたものなのである。仕事が退屈でたまらない人や起業を志す人、マーケッターやデザイナー、そしてビールが大好きな人まで、きっと多くの人の心をとらえるだろう。
荒海に小舟で漕ぎ出した彼らは、創業以来、何度も難破しかけている。マフィアのこと。強盗が入って殺されかけたこと。それらはまるで小説のようだが、流通上の壁についてはイメージしやすいかもしれない。飲料ビジネスのカギは流通網にあったのだ。何も持たない彼らがどうやってそれを乗り越えたのか。本書の読みどころは山ほどある。
仕事を辞めて相棒のトムと会社を起こしたとき、著者の年齢は39歳だった。それから30年以上の時が経った。荒廃したブルックリンの街には活気が戻り、ブルワリーはミュージシャンやアーティストを支援。偉大なシェフたちとともにビールのペアリングディナーを開催するなど、ビールの多様性を啓蒙する活動を続けている。
広告費をかけずに自らの言葉を使って表現すること、自分たちで流通させること、コミュニティに貢献することなど、その成功には今日的な要素が詰まっていると感じた。とにかく胸が熱くなる本である。ぜひ皆さんもこの本を読み、酒屋に駆け込んで身も心もブルワリーに委ねてみてはいかがだろうか。飲み過ぎには、くれぐれもご注意を。
ビールでブルックリンを変えた男 ブルックリン・ブルワリー起業物語
スティーブ・ヒンディ 著、 藤井友子 (イラスト)、和田侑子 (翻訳)