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ディナー17万円?明治時代のフレンチ事情


フレンチにみるセレブと庶民の大きな格差

贅を尽くした延遼館のフランス料理。費用はどれほどのものだったか。記録によると晩餐の料理代は飲み物別に、ひとり3円50銭となっている。おもしろいことに、『明治東京逸聞史』によると、明治14年、東京のおそば屋さんたちが、盛りやかけそばを1銭2厘から1銭5厘に値上げしようと相談し、結局は据え置きのままでいく店が多かったとある。今の時代、盛りそばは600円ぐらいというとこか。それから考えると、晩餐の代金はおおよそ17万5000円。今、超セレブのための特別なフランス料理でも、ここまではしないだろう。

もっとも明治の西洋料理は全般に高かった。明治10年、洋食の神田橋外「三河屋」が広告でうたったお値段は、コース料理で並30銭、上75銭。一品料理ではスープ8銭5厘、牛肉鳥類の料理で8銭5厘、サラダ5銭等々だ。3厘の値上げにやっきのそばのことを思えば、そうそう気軽に食べられるお値段ではない。

いやいや懐具合だけではない。それ以前に大きな壁があった。家族でひとつの食卓を囲むちゃぶ台が普及したのは大正時代に入って。食事は銘々膳で食べるのが常識だった人々にとって、食卓を一同で囲むことさえ、驚きだった。おまけにそこには銀の包丁(ナイフ)と肉刺(フォーク)が並ぶ。おやまぁ匙(スプーン)までも。

絵入り雑誌として明治時代、広く親しまれた「風俗画報」では、28年の号で以下のように説明している。

ホコ(フォーク)は三股にして尖りあり。象牙の柄を着く。これを以て器中の肉を刺しとどめハアカ(ナイフ)を操て截割きりさき 、これを匙にすくひ取て ふなり。

なんだか奇妙な食べ方だが、いちおうナイフやフォークの扱い方は習得したとしよう。

同じ年に出版された料理書『実用料理法』は、もう少し上級者向きで「洋食の心得」を説いている。

一 魚類の如きやはらかなるものは肉刺しにて食らふべし
一 自身の包丁にて牛乳油(バター)をとることなかれ

といった具体的なものから、

一 食物の口中にある時は談話すべからず
一 麺包(パン)又は果物のたった一つ残りたるをとり食らうことなかれ。
一残骨をねぶり残漿をすすりなどして食ひ盡すことなかれ。

とあり、ほかにもひとつのものを貪り食うな、食卓上の果物を持ち帰ってはいけない、浮かれてナイフやフォークなどをふり回してはいけないなど、24に渡って「べからず集」が続いている。

当時、大枚はたいての外食となれば、おおいに食べ、かつ飲み、歌い踊るなどの無礼講へいたるのはあたり前のこと。帰りに土産として食べ物を持ち帰るのは、楽しみのひとつ。開国を迫り、浦賀にやってきたペリーやペリー付きのパリ仕込みの料理長は、船に招待した日本人たちがたらふく御馳走になったあと、食卓に残った料理を着物の袂に入れて持ち帰ったことに驚いているが、この習慣は日本の供応の儀礼のひとつと知る。べからず集の多くは、一般庶民にとって理解を越える内容だったに違いない。

いっぽう、セレブ階級は、いち早くマナーを学んでいた。当時、精養軒ではマナー教室がしばしば開かれ、宮中の女官や政府高官夫人など、こぞって参加している。

かくして延遼館の夜会でみるように、フランス料理をマナーにのっとって親しむセレブもいれば、食卓に着く以前に戸惑いを覚えた庶民もいた。その格差は、3円50銭也の晩餐と盛りそば1銭2厘也の代金が示している。290倍もの差が物語るように、信じがたい開きがあったのだ。

しかし、その格差は、それだけ明治のフランス料理が急速な進歩をとげていた証明ともいえる。進歩は急速であればあるほど、格差は大きいものとなるのだから。


福地享子=文
(ふくちきょうこ)雑誌や単行本の編集、執筆業をこなしつつ築地の魚河岸で働く。その経験と知識から「築地に関してはこの人に」といわれるひとり。

本記事は雑誌料理王国第237号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第237号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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