“時代の流れ”からわかる日本料理の歴史 23年10月号


時代を反映し、常に変化を続けてきた日本料理。ここでは知っているようで知らない、その歩みを振り返りたい。

自然食の時代 縄文時代

小さな共同体による漁猟中心の生活で、末期には副次的に畑作(焼畑での稗や粟、陸稲の栽培)が興る。集団間の交易も行われていた。

漁労・狩猟・採取の食生活

貝塚からは多様な食材が見つかっている。春は野草や貝、漁労の最盛期である夏にはカツオなど多様な魚介類をとり、秋は常食料である木の実や遡上する鮭、ガンやカモを捕らえていた。冬から春にかけては狩猟時期で、鹿や猪などを食した。肉や魚介は「切る」「叩く」などし、直火や焼いた石にのせて「焼く」、また土器で「煮る」ほか、胡桃や栗、栃など澱粉質の植物はすり潰し、パン状にして焼いて食していたと考えられている。製塩は始まっておらず、塩分は獣の内臓などから摂取していた。調味料は天然の山椒や甘葛(あまずら)などか。

米と塩が登場 弥生・古墳・飛鳥時代

水稲が渡来し摂取食物の中心に。耕作地を中心とした集団定住が加速。食物(米)の余剰を起因に貧富の差が生まれ、各地に豪族が出現。その連合である大和朝廷の成立後、中国や朝鮮半島との交流が活発化。

水稲の渡来

中国南東部から東南アジアや朝鮮半島経由で渡来した水稲と共に甑(こしき:蒸す道具)も伝わる。稲作は紀元前2〜3世紀頃、九州北部で本格的に始まり、以後、約800年かけて東進したと推定されている。飛鳥時代に米が常食料になる。

製塩が始まり、醤(ひしお)が誕生

海水から塩の結晶を摂る藻塩焼きが始まる。その保存のために動物性・植物性のタンパク質や繊維などに塩を含ませた。これが醤であり、水稲の渡来とともにその技法も伝播。野菜や果実、海藻を塩で漬けた草醤(くさびしお)、鳥獣肉、海老や雲丹などを発酵させた宍醤(ししびしお)、米や麦、豆を発酵させた穀醤(こくびしお)が用いられた。のちの味噌や醤油、塩辛や鮨、漬物の原型である。大宝律令制定により、朝廷の大膳職には雑醬、豉(くき)、未醤などを司る醤院が設置された。カツオの煎汁(いろり:カツオを煮出し抽出した汁)も用いられた。

唐様食の模倣 奈良時代

天皇中心の律令国家となり、中国(唐)との正式な国交がスタート。税制の施行により豊かになった中央貴族は仏教を信奉し、唐風の文化を取り入れた。

唐・朝鮮様式の食文化

中国から現在のような二本箸が伝わり、宮中で使用されるように。貴族の宴席では漆器の器に箸と匙、新羅などの使節を迎える折には金銅器が使用された。また、中国から魚鱠(ぎょかい:酢の物、和物の原型)や胡麻油を使用した料理も伝わり、乾物を油で揚げてから煮る、といった複雑な調理技術も模倣された。唐菓子(穀粉を原料に、塩味をつけ蒸したり油で揚げた加工菓子)も登場。鮮度の良い鳥獣肉や魚介の鱠(なます:刺身)がご馳走。

最古の料理形式・神饌(しんせん)

最古の料理形式としては神饌料理が挙げられる。祝詞(のりと)と共に供えられた神饌は下げられ、一同で食した。生の食材である生饌(せいせん)、汁や粥などの熟饌(じゅくせん)があった。

伊勢神宮で朝夕の2度奉られる「日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)の神饌」。御飯三盛、御塩、御水、乾鰹、魚、海藻、野菜、果物はもちろん土器も全て神宮で作られる。
(神宮司庁提供)

製塩が全国へ普及、保存食の増加

製塩が全国へ普及、これに伴い醤も発達。乾燥食品(干魚、のし鮑、海藻、魚肉を割り、乾燥させた楚割(すわやり)、煮鰹を干した麁堅魚(あらかつお)など。この煮汁は鰹煎汁(いろり)と呼ばれ汁物に利用された)や塩蔵食品が増加。天皇や儀式用には朝廷の造酒司が酒や酢を、醤院が穀醤を製造した。

三重県鳥羽市国崎町にある伊勢神宮の鰒(あわび)調整所では、薄く切った鰒を乾燥させたのし鰒を調整している。写真は見取鰒(みとりあわび)と呼ばれるもの。
(神宮司庁提供)
愛知県知多町の篠島では、同様に神饌の干鯛が調整されている。内臓を除き塩水に浸けた後、天日で乾燥させる。
(神宮司庁提供)

大饗料理・有職料理の誕生 平安時代

遣唐使が廃止され、国風文化が興る。荘園制度に支えられた貴族文化は400年の間に固定化・儀式化・形式化した。

饗応料理(大饗料理)の誕生

儀式や接待のための盛饌(せいせん)が発達。こうした公家の饗応・儀式料理として大饗(だいきょう)料理が成立。高級貴族の正月大饗、任大臣大饗などがあった。兀子(ごつし:椅子)と台盤(だいばん:テーブル)を数人で囲むスタイルで、卓上には箸と匙、塩、酒、醤(ひしお:肉醤・魚醤含む)、酢が入った四種器が並び、各自が小刀や匙で干物や生物の食材を調味した。

有職(ゆうそく)料理の発生

天皇の食事(供御:くご)の据供御(すえくご:眺めるだけで食べないもの)と召供御(めしくご:実際に食するもの)のうち前者から、膳を飾り高く盛り付ける宮廷(有職)料理が発展。

有職料理を伝える京都・萬亀楼に残る、寛永3年(1626)に行われた「二条城行幸絵巻」の献立。「庖丁人」の名前が記されている。
(撮影:村川荘兵衛)

精進料理の渡来 鎌倉時代

中央貴族とは異なり、地方に土地を持ち新鮮な食材を摂取していたのが、荘園制の中から台頭してきた武士。禅宗と併せて南宋文化が渡来し、武士階級から浸透する。

武家の儀式料理・埦飯(おうばん)

公家達が殿上した時に衆人に出す簡易な膳が、武家の間で儀式料理に。大饗料理の伝統を受けたもので、御家人が将軍に饗膳を捧げる正月埦飯などが行われた。打ち鮑、クラゲ、梅干しに塩、酢が添えられたものが基本形。

禅宗と共に精進料理が渡来

臨済・曹洞の禅宗を伴い中国文化が再び伝播、教義の一つとして精進料理を受容した。また僧・恵心が宋から経山寺味噌(きんざんじみそ)の製法を伝え、製造中に槽に沈殿する液体(醤油)を調理に使用。干し椎茸や干瓢からひく素湯(スータン:精進だし)のほか、豆腐や納豆といった植物性タンパク質を味噌や醤油、胡麻油などの濃い調味料で味付けする(調菜)技術、点心として食されていた羊羹・麺類・餅類の製法などを含む高度な調理技術が伝わる。穀醤が重要な調味料として位置付けられ、草醤は漬物、肉醤は食品として独立。

和食の基礎が成立 室町時代

南北朝の騒乱を経て230年続いた室町時代。15世紀以降、8代将軍・足利義政の頃に東山文化が開花。今日まで続く日本文化の多くがこの時代に形成された。

鰹節が登場、ダシの利用始まる

鰹節が登場。鎌倉時代の末から室町時代にかけて、乾燥させた鰹や昆布からとるダシが使用され始めたと考えられている。

調味に醤油と砂糖が登場

中国や琉球からもたらされる砂糖が貴族階級の調理に使用されるように。また、穀醤から味噌が独立、そのタレ(たまり)から醤油が起こり独立した調味料に。

料理流派が成立

武家階級にも公家社会の影響が濃くなり、食事の礼儀作法を尊ぶ風から四条流、大草流、進士流、生間流といった庖丁流派が成立。庖丁式(包丁と箸を使い、食材に触れずこれを美しく切り分けて並べる儀式)が流行。武士の教養として弓、蹴鞠と並び庖丁が挙げられている。

本膳料理が確立

大饗料理の流れを汲んだ公家の料理(有職料理)に対し、武家の儀式料理である本膳料理も確立。精進料理の調理技術を取り入れ、調味されたメイン料理が銘々膳で供されるもので、本格的な和食の成立と見做すことができる。武家の宴席では主客だけで式三献(しきさんこん:三三九度の原型)が行われ、その後の酒宴では一献ごとに配膳が変えられた。

食材の多様化 安土・桃山時代

戦国時代末期から開始された南蛮貿易で、ポルトガル、イスパニア、オランダとの交易が拡大。朱印船貿易により中国、朝鮮半島との交易も活発化。

茶懐石の誕生と食器の多様化

栄西により宋から茶の種子が持ち込まれ、喫茶という習慣が武士間から公家、民衆へ拡大。闘茶という勝負事から茶道へと発展。奈良・称名寺の僧・珠光が「わび茶」と呼ばれる思想と作法を確立、武野紹鴎を経て千利休により完成される。これに伴い茶席の料理が確立。懐石とは禅林風の簡素な食事の意で、飯・汁と香の物・向付(鱠や刺身)の一汁三菜が基本。また、茶道の発達に伴い陶磁器の製法が進み、従来の木地や漆の器のほか陶磁器の皿、椀、鉢など多様な食器が食膳に加わる。

新しい食材の渡来

南蛮貿易を通じスイカ、唐辛子、イチジク、カボチャ、ジャガイモ、サツマイモ、トマトなど多くの食品が渡来。香味にネギや唐辛子を使う南蛮料理も伝わる。

和食の完成と会席料理の誕生 江戸時代

260年余に及ぶ徳川政権下で封建制度が確立。鎖国政策のもと、貨幣・階級制度の固定、各藩の殖産興業政策(農林水産加工業の発達)や交通網・商業の発達、武士・町人の都市集住などにより食生活が豊かに。

製塩の拡大により発酵調味料の大量生産が始まる

17世紀初めに入浜式塩田が開発され製塩が拡大。醤油製造も盛んになり、現在の醤油が一般化。同世紀末期から国内でも製糖が始まる。酢も各地で大量生産されるようになり、早鮨(ご飯を発酵させるのではなく、醸造した酢をご飯に混ぜた酢飯を使用)が登場。また飲用に登場した味醂が調理にも使用されるように。

燻乾した鰹節が登場

身を茹でて天日乾燥していたのが従来の鰹節だが、この時代にナラやカシで燻乾する土佐節が登場。18世紀に入るとカビ付けすることで水分が抜け保存性が高まった本枯節が登場。

屋台が登場、外食文化が浸透

醤油や酢といった発酵調味料の浸透により庶民の料理が発展。江戸市中にそば、すし、天ぷらなどの立ち食い屋台が登場。外食文化が発展。

会席料理の誕生

江戸初期には煮売屋、そば切りなどの屋台が登場。やがて上方には大商人などを顧客として座敷に上げる料理屋が登場。煩雑な饗応料理ではなく、茶懐石に工夫を加えた会合・酒席のための食い切り料理=料理を献立の順に供する会席料理が登場。脚のない会席膳(折敷盆)で、季節の食材を使用した料理が食べるタイミングに合わせ一品ずつ供された。

洋食の受容 明治時代

明治政府の欧化政策により取り入れられた新しい文化が社会に浸透。

肉食の解禁と浸透

明治4年(1871)に明治天皇が肉食の再開を宣言。従来食べられていた鹿鍋、猪鍋といった料理に牛が応用され、牛鍋(すき焼き)が誕生し流行。また、日清日露の開戦に伴い、兵食に使用される牛肉・豚肉の利用が増大。トンカツ、カレーなど兵食の文化が明治末期から家庭料理にも浸透。

西洋料理店の誕生と普及

外交の饗応や宮中の正式な饗応が西洋料理となる。外国人居留地のあった横浜などを中心に西洋料理店が登場。

【参考文献】
「専門料理全書 改訂 日本料理」(辻学園調理・製菓専門学校) 監修/定延健二 著/永田猛、春藤信也、下畠照正
「日本料理の歴史」(吉川弘文館) 熊倉功夫
「和食文化ブックレット5 ユネスコ無形文化遺産に登録された和食 和食の歴史」(思文閣出版) 原田信男
「日本料理とは何か 和食文化の源流と展開」(農山漁村文化協会) 奥村彪生

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