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完全放牧牛「ジビーフ」という未体験の世界


生産者 ✕ 精肉店 ✕ シェフ

命のリレーが味を育てる完全放牧野生牛
ジビーフという未体験の世界

廃業も視野に入るなか、覚悟を決めての完全放牧

いまからおよそ10年ほど前、北海道・日高山脈の麓、様似町で西川奈緒子さんは苦悩していた。父から継いだアンガス種の放牧牛を育てる駒谷牧場は、サシ至上主義の市場で苦戦を余儀なくされていた。

肉質への工夫は重ねてきた。飼料を工夫したり、アンガスと黒毛和牛をかけ合わせ、肉質とサシの両立を目指すなど新しい試みにも手をつけた。しかし結果は芳しくなかった。

BSE、食肉偽装、口蹄疫、東日本大震災――今世紀に入ってから牛肉はいつも苦境に立たされてきた。現行の格付制度で高評価が約束されているような黒毛和牛にも逆風が吹いた。ならば、現行の格付制度で高く評価されようのない牛にはどれほどの向かい風が吹いていたのだろうか。

当初約200ヘクタール(※東京ドーム42個分以上)という広大な大地に800頭いた牛は、100ヘクタールにメス8頭と種雄牛1頭の合計9頭にまで減った。どこで聞きつけたのか海外の企業から土地の売買も持ち掛けられた。廃業すら脳裏をよぎり、西川さんは腹をくくった。

「もう中途半端はやめよう、と。受精は自然交配。生まれた子牛は好きなときに好きなだけ母乳を飲み、完全放牧の草だけで生きる『野生の牛』を育てようと決意しました」

斜面から迫りくるジビーフは、人にとって畏怖をも伴うが、それこそが“野生”。生命が力強く躍動する。

それから2年。2013年に2頭の完全放牧牛が仕上がり、かねて「この人なら」と焦がれた滋賀の精肉店「サカエヤ」の店主、新保吉伸さん宛に長い長い手紙を書いた。

牧場の成り立ち、牧場経営への想い、牛肉市場への憂い、放牧牛に懸ける情熱ーー。原稿用紙換算で15枚分以上に及ぶ熱量は、未知なる肉へと向かう新保さんの気持ちに火をつけた。

もっとも1000km北の彼方から届いた、完全放牧アンガス牛の肉を見た新保さんは「どうしたもんか……」と途方に暮れかけたという。

「最初に骨つきロース肉とモモ肉の2本を引き受けたんですが、草の香りがする骨つきの牛肉なんて扱ったことがありませんでしたから」と当時を思い出して苦笑する。

その一方で遠くを見るように「この8年でジビーフの肉質はずいぶんよくなりました。牧場の環境がととのって来たんちゃうかな」とも言う。

その指摘は正鵠を得ていた。9頭のジビーフは自然交配を重ねた結果、数年で100頭近くまで増えた。広大な牧草地の青草は育ちきると草も硬くなってしまい、牛の食いが落ちる。

「牧草も若々しいうちに食べきるのが、一番栄養になるみたいなんです。実際、頭数が少なかった頃は、牧草は伸び放題なのに食いが落ちたこともありました。2〜3年前から適正な頭数になったような気がします」(西川さん)

日高山脈を越えて十勝管内でと畜された枝肉は、10kg超の単位で大分割されてから滋賀へ送られる。新保さんの求めるカットや状態に応じて、分割や輸送方法も幾度となく変わった。

次の走者に少しでもいい状態でバトンを渡すため、試行錯誤を繰り返す。それはジビーフにまつわるすべての人に通底する心意気なのだ。


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