【特別対談】フランスで認められた2人の日本人シェフ


フランスで認められた日本人の料理人は、そう多くはない。しかしここに、ふたりのそんな料理人がいる。「師匠と弟子」でもあるふたりに、海外で勝負できる人材の育て方について聞いた。

原点の人 酒井一之
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独立した人 松嶋啓介

フランスに行きたくて「ヴァンセーヌ」の門を叩いた

―まずは、おふたりの出会いを聞かせていただけますか。

松嶋啓介(以下:松):僕は、フランスに行きたいと思っていたので、いろいろな雑誌やガイドブックを見て、どのお店で働いたら、最短でフランスに行けるかを調べていたんです。

そうしたら、在仏13年のシェフが渋谷で店を開いていると知って。当時は、そんなに長くフランスで働いていた人なんてほかに見たことなかったんです。それで、ここなら!と「ヴァンセーヌ」の門を叩きました。

酒井一之(以下:酒):小さい店だったので余分に人を雇う余裕もなかったのですが、「給料はいらないから働かせてくれ」と彼が言ったんでね。まかないだけでいいならいいかと。
そうしたらね、すごくよく働くんですよ。最初はホールでサービスの仕事をやってもらっていたんですが、彼は3カ月くらいでだいたい仕事ができるようになりました。

料理以外のこともできれば、仕事に困らない

―酒井さんは、師匠としては厳しい方でしたか。

松:何が厳しかったって、電話の応対とかでしたね。礼儀ということではなくて、用件や人の名前をちゃんと聞いておけ、と。スタッフみんな、同じように怒られてました。
怒られている時は「なんでこんな怒られ方するんだろう?」って思ってましたけど、時間が経ったら、その経験がよかったってみんな言いますね。

酒:若い人たちは、まあ、将来独立したいだろうと。独立して仕事をやるからには、料理以外のこともできなくてはいけない。だから、最初の1年くらいはサービスをやってもらいました。電話応対だけじゃなくて、レジを打つとか、ワインリストを作るとか。その時に一生懸命勉強した人間は、お金の管理も、ワインのことも覚える。それは、非常に役に立つことなんです。

松:ちょうど、うちの会社でも会議でその話を出したばかりです。キッチンしかやっていないスタッフは、表に出すとつぶれてしまう。お客さんとコミュニケーションがとれないんです。だから、今からでも遅くないからサービスやれって言ったんですよ。僕らは料理人だけど客商売だから、サービスができないと店なんか持てない。

酒:私は、もともとそういうところに疎かったので、若い人にはやらせてやろうと思ったんですよね。
私は日本で皿洗いから始めたんです。けれど、皿洗いは技術も知識も蓄積されない。だって、フランスに行ったら料理人は皿洗いなんてしてないんです。

松:「ヴァンセーヌ」では、持ち場はストーブ前、コール場、サービスの3つでした。その3つをやれば仕事には困らない。僕は実際、すごく役立った。

酒:昔の日本では、サービスと料理人は仲が悪かったんです。お互いの仕事を認めてなくてね。だけど、サービスのことは絶対に知る必要がある。とくにお金の管理は必要で、付け焼き刃ではできない。サービスも料理人もプロ、というのが自分のスタートには欠けていたので、若い子たちには、そういうことを教えてあげたかった。

―酒井さんに教わったことで、なにか印象的なことはありますか。

松:酒井シェフが一番最初に教えてくれたのは「フランスはコネ社会だ」ですからね(笑)。長くいた人ならではの話です。

酒:フランスはコネがなければ生きていけない社会なんですよ。外国人はとくに。私が行った1966年は、まだフランス観光が始まったばかりの頃。仲間とかコネとか、そういったものの力が今よりずっと大きかった。
まあ、松嶋くんがあんなに早くフランスに行くと思っていなくて。そういう話を聞きたがるから、得意になってしゃべってしまったんですけど。

松:酒井シェフは当時、料理長だったので忙しくて、あまり店にはいなかったのです。でも、話を聞くのが好きだったんで、店を閉めた後、夜にけっこう話しましたね。

酒:店を任せられる人がたくさんいたからね。

松:デザートを作るのはサービスの仕事だったんですが、僕は朝6時頃からお菓子を仕込んで、味見してもらって、そこからは料理の練習をしましたね。それで、肉と魚のおろし方を教わったら、もうフランスに出ちゃった。でも、土地に根づくのが難しいフランスで、酒井シェフに聞いた話はすごく役に立ちました。

―当時、お店の環境づくりで何か意識していたことはあるのでしょうか。

酒:ずっとやっていたのは、菜箸を置かないこと。鍋なんかも、フランスのキッチンと同じような環境にしましたね。まかないも、米を使うことは滅多になくて、店のメニューの延長線上にあるものでした。ほかにも、フランス語の先生に来てもらったり、ペタンク(フランス発祥の球技)したり。「ヴァンセーヌ」からフランスへ出て行ったのは10人を越えていますが、訪ねていくと、みんなコミュニケーションには困っていなかったですね。もちろん、みんな行く前にいろいろ勉強したと思いますけれど。

松:僕は、フランスのワインをネタにしたことわざとか覚えていったし、自分のネタも作ったりした。フランスのそういう細かい習慣とかを教えてもらっていたから、フランス人がびっくりするんですよ。もし、料理しか教わっていなかったら料理でしかコミュニケーションがとれない。それはすごくもったいないです。たとえばフランスに行って、ワインの生産者とワインについて語れなかったら、フランスで修業する意味なんてないですよ。

身近な人からコネクションを広げる力

―これから独立開業を目指す人に、なにかアドバイスはありますか。

酒:独立開業は、これまで教わったことを実践しなければいけない。それは思いが強ければ何とかなる。悪いほうにいってもいいほうにいっても、そういうタイミングが来ます。

松:今から独立開業する人は、日本じゃない方がいいんじゃないですか。人口が減るのはすごいリスクだから、ほかの国に行くことも考えたほうがいいと思う。スタッフには、フランス料理をやりたいなら、さっさと海外に行けと言っています。
あと、今、自分が働いているお店に同世代の友達や親を呼べないなら、自分で始める店にはお客さんは一生入らないぞ、って言っています。それは、商売のベースですから。

酒:私の親も、喜んでうちの店に食べに来ていましたね。身近な人から、コネクションは広げていかないと。ファンを作るのは大事です。松嶋くんは昔から、そういうのがうまいよね。ファンも多いし。

松:いや、シェフも多いですよ(笑)。

―料理だけではない、また、日本だけではない、というおふたりが、フランスで認められた理由がわかった気がします。本日はありがとうございました。

対談が行われた神宮前「ケイスケ マツシマ」の前で。酒井さんが着ているコックコートは、松嶋さんからのプレゼントなのだそう。 

ヴァンセーヌ・サーヴィス代表
酒井一之

1942年、埼玉県生まれ。大学在学中に料理人を志し「パレスホテル」に入社。1966年に渡欧し、デンマークやフランス各地で研鑽を積む。パリ「ホテル・ムーリス」などで修業ののち、「ホテル・メリディアン・パリ」に入社、副料理長を務め、1980年に帰国、渋谷「ヴァンセーヌ」を開店した。現在は、食のコンサルティングやプロデュースに専念する。

「ケイスケ マツシマ」
松嶋啓介

1977年、福岡県生まれ。18歳で上京し専門学校へ。卒業後、「ヴァンセーヌ」での修業を経て、20歳で渡仏。フランス・ニースで2002年に「ケイズ パッション」を開店、3年でミシュランの一ツ星を獲得した。その後、店を拡張し「ケイスケ マツシマ」と店名をあらためて現在に至る。

澤 由香(本誌編集室)=取材、文 林 輝彦=撮影

本記事は雑誌料理王国2016年10月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2016年10月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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