東ロンドンのハブ、ストラットフォードにあるマリオット系列のホテルにこの5月、日本料理店「Kokin」が誕生した。すでに高級レストランを成功させているベテラン、下山大介オーナーシェフに、その戦略を伺った。
シェフとして、140席をカバーするモダンなホテルのレストランに挑戦するなら、あなたならどう形にするだろうか。あなたは雇われではなく、レストラン・ブランドのオーナーシェフだ。しかしホテル側と戦略的な提携を結んでいるわけではなく、あくまでもシンプルなリース契約で乗り込んでいく。つまり全裁量をまかされ、自身の手ですべてを成功に導かざるをえない立場にいる。アドレナリンが噴出するかもしれないし、不安で手に汗を握ることになるかもしれない。
この身震いするような大冒険に、この春から乗り出しているロンドンの日本人シェフがいる。15歳から業界に身を投じてきた下山大介さん(冒頭写真)だ。これまで日本では六本木時代の「龍吟」をはじめ多くの厨房を、そしてロンドンでは日本食店の金字塔ともなっている一つ星「UMU」の料理長を務めた経験があり、2017年からは自身の高級和食店「Hannah花」をオーナーシェフとして8年に渡って成功に導いてきた。
Hannahはテムズ川沿いにある壮麗な元ロンドン市庁舎の1階に佇む美しいレストランだ。ホテルの話が舞い込み、Hannahを一旦、懐石料理の重責から解きはなって土鍋レストランへと変容させた後、最強のHannahチームがこの5月、「Kokin 古今」のブランドをひっさげて東ロンドンのホテル「ストラットフォード」へと移籍してきた。あっという間の決断なのである。
下山大介は明らかに、アドレナリンが出るタイプのシェフに違いない。
「Kokin」が誕生したのは、東ロンドンの最新カルチャー発信地の一画、マリオット系列ストラットフォード・ホテルの7F(日本式8階)だ。広々としたフロアには寿司カウンターやバー、ラウンジもある。8Fから上は形状の違うアパートメントなので、Kokinは屋上レストランとして2つのガーデン・テラスを備えた理想的な造りになっている。
ずっと伝統の割烹料理の世界で腕を磨いてこられた下山シェフは、ロンドンで懐石料理にひねりを加えた独自世界を切り拓いてきた。しかし今回の冒険では、現代の風潮に合わせ、かなりの「ドレスダウン」をしていくのだそうだ。
コンセプトはズバリ、「Izakaya」。「今回はもっとカジュアルで、地元の皆さんに日常的に来ていただけるような居酒屋スタイルを目指しています」と、下山シェフ。メニューも今後はどんどんシンプルに、価格もリーズナブルにしてく予定だという。
下山さんがシェフとして今回、楽しみに取組んでおられるのが、ウッドファイヤーだ。直火料理は近年のロンドンで大流行りだが、下山シェフのやり方は少し違う。さまざまな木が持つ香りの特徴を掴み、スモークを使い分けて食材の風味づけに生かしていくのだ。
下山さんは言う。「屋外スペースを持てたおかげで、ようやくウッドファイヤーに力を入れられるようになりました。薪はすごく面白いんです。燃やし始め、盛り、終わりの熾火の手前の香り。そのすべてが違う。火を起こしたてのときのスモークには、少し酸味があります。燃やしている間に、どんどん香りが変わっていくので、どの段階で食材を入れるのかを考えるだけでも面白い。香りはほとんど調味料ですね。モダンな調理器具に頼らず、直火で何時間もかけて調理するのも心躍ります」。
現在のお気に入りはシルバーバーチ、チェリー、レモン、ウィスキーバレルなど。これらを単体で使ったり、組み合わせたりして香りを形作っていく。なんという豊かな調理法だろうか。ウィスキーバレルは、最初はチョコレートのような風味だが、そのうち綿あめのような甘い香りに変化していくのだそうだ。レモンは、蒸した白菜のような香り(!)。最もオーソドックスなのが、シルバーバーチの温かな匂い。
直火に特別な思い入れのある下山シェフの原風景には、故郷の群馬県桐生市の山の中で体験した、松の木を燃やしたときの温かさ、そして豊かな香りがあるのだという。
もう一つ、Kokinを本当に特別なレストランにしている食材が、最高級の天然マグロだ。これは日本人漁師の田中一さんがポルトガルから届けてくれる、持続可能な本マグロ。田中さんは2016年からポルトガルの漁場で定置網漁による捕獲を開始して欧州のこだわりのレストランにおろしている。シェフに愛されるマグロなのだ。
この特別な本マグロは敬意をもって解体披露され、熟成室で細心の注意を払って管理される。全ての部位が然るべき方法で利用されるが、中でもKokinの看板商品となっているのが、マグロのカマ焼きである。
脂肪分が多いカマは3時間かけて遠火で火を通す。独特のスモーキーな香り付けにはシルバーバーチ、ウィスキーバレルなどを使う。歯応え柔らかく風味豊かに仕上げられたカマに合わせるのは、下山シェフの特製、8年間熟成させている美しい色合いのポン酢ソースだ。しいたけ、ゆず、オレンジなどを使った旨味の強いソースと大根おろしで、味の深みを増したカマをさっぱりといただく趣向。なんとなくピート香の強いシングルモルトを合わせてみたい気分になる。
驚くなかれ、Kokinでは鮨飯にも、デザートのアイスクリームにも、スモークを施す。スモークがKokinを定義していると言っていい。そして燻しの研究について語る下山シェフは、本当に楽しそうなのだ。
ちなみに「カジュアル」な居酒屋志向というわりに、Kokinの料理は味も盛り付けも繊細さが際立つ。これは下山シェフのバックグラウンドが成す技であり、今後どう進化していくのか注目したいところでもある。
14年に渡って現地の日本食業界と向き合っている下山さんには、イギリスで受け入れられるIzakayaスタイルについて、しっかりとしたヴィジョンがある。
「料理に関しては、どうしてもローカライズしていくことになると思います。現地で大衆に好まれるのは、いわゆる日本の正統派和食ではなく、シンプルで分かりやすいIzakayaメニューです。ビザの問題で日本人シェフが減っている中、今後はますます “日本で修業をした日本人ではないシェフ” と働くことになることを考えると、メニュー構成の視点も考えていかざるをえません。自分が好きなことも引き続き探求しながら、うまくイギリスのフレーバーを取り入れることで、ローカルの常連ができたら最高です」。
下山さんはまた、「ホテル・レストランのイメージを変えていきたい」とも言う。確かにこの領域には開拓の余地がありそうだ。高級にせよカジュアルにせよ、上層階にあるホテル内のレストランで常に活気ある状態を維持することは挑戦でもあるだろう。
Kokinは「ホテルのIzakaya」として地元客で賑わうことを目指しており、それはホテル側のヴィジョンとも重なっているのではないか。ロンドンで日本食人気は続いており、実績ある下山シェフ率いるKokinを迎えたことは密かにホテル側の戦略でもあるに違いない。東ロンドンのハブとして今度も発展を続ける好立地なので、おそらく将来的には海外からの客も増えていくだろう。
「店の大きさを最大限に活用したい」と下山シェフ。他の注目シェフとのコラボレーションや、季節のイベントなど、多くの魅力的な企画を発信することで、なくてはならない店に育てていく。かくいう筆者も、その手腕に魅了されつつある者の一人だ。
Kokin
https://kokin.co.uk
text・photo:江國まゆ Mayu Ekuni