すし屋の門を初めてたたいてから50年以上もの間、すしを握り続ける銀座「すきやばし次郎」の主、小野二郎さん。彼が求め続けるすしとは、職人の姿とは。二郎さんが「もっとも信頼していて話しやすい」と名をあげる料理評論家、山本益博さんが、その言葉を聞き出す連載。ジャンルを超えてすべての料理人に伝えたい。
ここのところ、道を歩いていたり電車に乗っていたりすると、「あっ、二郎さんだ」って顔をされるんですよ(笑)。目でこっちを見ながらひそひそ話をされるのならまだマシなほうですが、指を指されるのはあんまり気持ちのいいもんじゃないですね。店に突然入ってきて「二郎さんですよね。握手をしてください」ってのもありました。禎一(二郎さんの長男)が「うちはそういうの、やってないんで」って握手を断ってる姿が、なんだかおかしくてね(笑)。ミシュランの影響はすごいですよ。
でも、あたしひとりが注目されているように思われても嫌なんです。「次郎」が、あたしが、このように評価をいただけるのは、たくさんの方々の力に支えられてのことなんですから。
「次郎」という店の評価における陰の大きな功労者。それは、うちの掃除を担当してくれている女性ですよ。照れ屋なんで名前は伏せますけど、彼女は掃除の神様なんです。彼女が歩いたあとはチリひとつ落ちてない。逆に、ピカピカになってますから。壁の鋲までピッカピカ。
もともとは洗い場(スタッフ)として募集したんです。応募動機がおもしろくてね、前の職場が女ばっかりでいろいろ話しかけられるのが面倒臭かったんですって。すし屋なら男ばっかりだから、ほっといて仕事させてくれるだろう、って思ったって言うんですよ。
実際、うちに来てから、ほっといても掃除してますよ。15年間、ずーっとね。毎朝8時前に来て、椅子を全部外に出して隅々まできれいにしてくれてます。いつも片手に雑巾を持って、気がつけば拭いてる。その雑巾もいつもきれいにしてましてね、食事をしたときに私が口の周りをつい拭いてしまうくらいですよ(笑)。
その姿勢を見て、若い衆も見習う。そりゃ、自分たちもやらなくちゃ、と思いますよ、あれだけ完璧だと。ありがたいことです。
昔、山本(益博)さんに連れられて、三田の「コートドール」の厨房を見せてもらったことがあるんです。これが、ものすごく驚いた。とにかくきれい。同じ大きさの鍋がピチッと並んでいるほかは何もない。フランス料理だから肉や魚はもちろん、バターやクリーム、油なんかもたくさん使っているでしょうが、そういう痕跡もない。毎日、掃除をしているからだって斉須さんはケロッと言われていましたね。
ロブションさんの厨房もすごかったですよ。調理台の上に何もなくて、明日開店かっていうくらい掃除が行き届いていました。
おふた方とも、単に店が清潔なだけではないんです。その厨房から完璧なる仕事の姿勢が見えたんです。以来、今まで以上に掃除には気を遣うようになりましたね。
すし屋だから生臭いのは当たり前と思っているとしたら、大間違いですよ。単に掃除をしていないだけ。言い訳です。うちでは、朝の仕込みが終わったら、まずまかないまでの間に床を洗い流します。ウロコやハラワタを扱っていますからね、その臭いがつく前に流してしまうんです。夜のための仕込みが終わって1回、夜の営業が終わって1回。合計、3回は調理場の床をこすってます。だから、臭いはまったくない。冷蔵庫や棚は、汚れに気がついたもんが拭いています。掃除のコツですか?
そうですねぇ、まずは、汚れたと思ったらすぐ掃除する、という心がけでしょう。すぐやれば、汚れは落ちやすいし、臭いも絶対に残りません。後からやろうなんて人は、後になってもやりませんよ。
それと、隙間に汚れがたまっていきますから、台などの掃除の邪魔になるものは面倒臭がらずに動かすことです。そして、隅々まで掃除する。単に洗うという気持ちだけではなくて、ステンレスなど光るものは、徹底的に磨いて光らせることを意識することも大事でしょう。
うちの連中はここでの仕事が長いですから、清潔を維持するリズムが体に染み込んでますよ。店に入ってきた初めの頃は、何度も何度も言い聞かせましたけど、今では少しでも汚れてたら気持ち悪いんじゃないですか。「次郎」出身の職人はみんな、店も調理場もきれいです。これは、自信を持って言えます。
自分たちの職場なんですから。何より、お客さまの口に入るものを扱うんですからね。キレイすぎるってことはないんです。
山本益博 監修、管洋志 撮影
本記事は雑誌料理王国第164号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第164号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。