ミシュラン愛好家によるミシュランファンのためのミシュラン歴史社会学


『ギド・ミシュラン』を生んだフランスのモータリゼーションの流れとビバンダム誕生秘話

いゆるミシュラン・ルージュの東京版『ミシュランガイド東京』が11月に出版されるということで、東京のレストランや料亭、ホテル、旅館はいま緊張しながらその結果を待っているようだが、とかくなあなあで終わりがちな日本人の評価に対して、公正かつ容赦ないことで知られるミシュランの格付けがどう出るか、関係者でなくとも興味をそそられるところである。

私個人のことをいうならば、ミシュランは、ルージュ(赤版)のみならず、ヴェール(緑版 観光ガイド)、ブルー(青版 市街地図)、ジョーヌ(黄版 道路マップ。現在は、フォローする広さによって、赤《国別》、オレンジ《地方》、黄色《県》に色分けしてある)など、ありとあらゆる分野でお世話になり、その正確かつ的確な記述には常に深い信頼を寄せてきた。

また、キャラクターであるビブ(日本では英語読みでビバンダムと発音しているが、フランス語ではビバンドム)をあしらったミシュラン・グッズに関しては、ひとかどのコレクターを任じており、パリに行くたびにエスパス・ミシュランに出向いて時計や鞄を購入しているばかりか、日本ミシュランで教え子が働いていると聞くと、彼女を介して密かに非売品のビブ・グッズを入手してひとり悦に入ったりもしている。さらにいえば、タイヤは、経済的に逼迫して日産サニーに乗っていた一時期を除いては、シトロエン2CVでも、サーヴでも、フォルクスワーゲン・ゴルフでも、一貫してミシュラン・タイヤを履いている。

というようなわけで、日本人にしてはミシュランに対する貢献度はかなり高いはずなのだが、そんな私でも、1970年代末に初めてフランスに行った時には、ガイドブックのミシュランとタイヤメーカーのミシュランが同じ企業であることも、ガイドブックの類いはタイヤの販売促進のために生まれたという事実も知らなかったのである!
しかし、この発見の驚きがあったためか、かえって、その後、ミシュランという企業の歴史とその展開に興味を抱くようになった。いったい、クレルモン・フェランの一タイヤメーカーだったミシュランがいかなるきっかけでグルメ・ガイドの出版に乗り出すようになったのか、そのあたりの事情を知りたいと思ったのである。

後にフランスを代表する企業の一つとなるミシュラン社の前身「マニュファクチュール・フランセーズ・ミシュラン」が産声をあげたのは、パリで4回目の万博が開かれた1889年のこと。

創業者はアンドレ(1853―1931)とエドゥアール(1859―1940)のミシュラン兄弟である。兄弟がゴムタイヤの製造を始めるようになったのは、父であるジュール・ミシュラン(1817―1870)がクレルモン=フェランの農機具製造者アリスチッド・バルビエの婿養子となり、従兄のエドゥアール・ドーブレとともに、1863年にゴム毬を製造する「バルビエ=ドーブレ社」を設立したのをきっかけにしている。というのも、エドゥアール・ドーブレの妻となったプー・パーカーは、生ゴム(カウチュー)がテレピン油に溶解することを発見した有名なスコットランドの化学者チャールズ・マッキントッシュの姪であり、ゴム製造の秘法を一種の持参金としてドーブレに嫁いできたからである。
ジュール・ミシュランとドーブレは、1863年頃から、馬車の車輪にラテックスの覆いを被せて緩衝を高める研究を進める一方、ゴムの大量生産の道を模索していたが、結局、たいした成果を見ぬままにジュールが1870年に没し、「バルビエ=ドーブレ社」も経営不振に陥ったので、ジュールの二人の息子のうち、まずアンドレが経営者となって経営を建て直し、ついで1889年には、二人で新たに「マニュファクチュール・フランセーズ・ミシュラン社」を設立して、エドゥアールが社長となったのである。

この小さな会社に大きな転機が訪れたのは、設立から2年たった1891年のことだった。ある日、二人が工場で働いていると、一人の自転車愛好家がパンクしたタイヤを修理してくれないかと訪ねてきた。当時、自転車の車輪も、ダンロップの発明になる空気式ゴム・タイヤを使用するようにはなっていたが、タイヤはリムに糊付けされているため、外れやすいと同時に、パンクすると修理に時間がかかるという厄介な問題を抱えていた。
このゴム・タイヤを修理しているうちに、エドゥアールは、ふと、空気タイヤをボルトでリムに固定することを思いついた。こうしておけば、パンクしたときには、タイヤだけ取り外して、穴のあいた箇所を修理できる。
こうして、ミシュラン・タイヤの第一号が完成し、3時間もかかったタイヤ修理がわずか15分に短縮されるようになったのである。

折よく、この年、世界初の長距離自転車ロードレースである「パリ=ブレスト」がピエール・ジファールのスポーツ新聞「ベロ」の主催で催されることとなったので、ミシュラン兄弟は優勝候補のシャルル・テロンに自分たちのタイヤを貸与することにした。果たせるかな、テロンは1200キロを一気に突っ走り、ダントツで優勝するという快挙を成し遂げた。

こうして自分たちの製品に自信を得た兄弟は、1894年に、まず自分たちの乗っているファエトン型馬車に改良タイヤを履かせて試運転をしたあと、自動車タイヤの分野に乗り出すことにした。というのも、1886年にドイツのダイムラーが発明した内燃機関のエンジンのおかげで、いよいよモータリゼーションの時代が幕を開けようとしている機運を感じ取ったからである。

1895年、自動車マニアの王侯貴族や大富豪が自動車レース「パリ―ボルドー」を開催すると、ミシュラン兄弟は自ら製造した「エクレール」号に新作タイヤを装着して参加、優こそ逃したものの、完走を成し遂げ、ミシュラン・タイヤの優秀さをおおいにアピールした。
こうして、各国の自動車マニアたちは、競ってミシュラン・タイヤを履くようになったが、その優秀性が完全に証明されたかたちとなったのは、1899年に、ジュナッツィの電気自動車「ジャメ・コンタント」号がミシュラン・タイヤで時速100キロの大台を突破したことである。これによって、ミシュランは一気にタイヤメーカーのトップに踊り出たのである。

とはいえ、自動車はまだまだ高値の花、大金持ちの道楽にすぎなかったから、いくら優れたタイヤでも、自動車台数が伸びない限り、生産も伸びない道理だった。
そこで、ミシュラン兄弟は一計を案じ、自動車普及のために、無料の小冊子『ギド・ミシュラン』を配ることにした。パリ万博の開かれた1900年のことである。

この『ギド・ミシュラン』には、遠距離ドライブを楽しむために不可欠のガソリン・スタンドや修理工場、タイヤ置き場、それに公衆トイレなどの場所といった便利情報のほか、大金持ちのドライバーたちが立ち寄ることのできる快適さを備えたレストランやホテルのガイドも添えてあった。
これが大好評を博したので、気を好くした兄弟は『ギド・ミシュラン』を毎年、無料で顧客に配布することにした。今日に至る『ミシュラン・ルージュ』の始まりである。

アンドレ(左)とエドゥアール(右)のミシュラン兄弟。ミシュラン社の前身となるマニュファクチュール・フランセー ズ・ミシュランを1889年に創業した。

ミシュラン社の歩みはフランスのモータリゼーションの発展とともにあった

ところで、この『ギド・ミシュラン』に先立つこと2年、ミシュランには、後の繁栄を約束するもう一つの発明品が誕生していた。例のビバンドム、通称ビブである。
1898年のこと、兄弟がたまたまタイヤの山の前を通りかかると、タイヤにはどれも白い覆いが被せてあった。兄弟の一人が叫んだ。「ふーむ。これに、手を脚を加えてやれば、ボノムになるなあ!」。ボノム(bonhomme)というのは、人間の姿・形をした絵や立体、たとえば雪だるまなどについて用いることばで、強いて約せば「おっさん」とか「じいさん」、あるいは「おばけ」などとなる。

かくして、この「タイヤのおばけ」が杯を掲げて乾杯をしている姿のポスターがデザイナーのオ・ギャロップによって描かれたが、ビバンドムの愛称が生まれたのは、そのポスターの上に「ヌンク・エスト・ビベンドゥム!Nunc
estbibendum!)」という文字が描かれていたことによる。
訳せば、「さあ、乾杯だ!」の意味で、その心はポスターの下にあるように、「ミシュラン・タイヤは障害物を呑み込んでしまう」というものだった。

このビブは、さっそく「ギド・ミシュラン」にも登場したばかりか、ミシュランのあらゆる広告媒体でも活躍するようになった。当初は、自転車用の細目のタイヤからなる肥満体だったが、ミシュランが自動車用タイヤに重点を置くようになるにつれ、ビブも筋骨たくましくなり、タイヤの本数も26本に定められ、現在に至っている。一時期は、酒は飲むは葉巻はくわえるはとかなり乱暴なボノムだったが、エコロジーの影響か、近年は節制につとめ、「おばけのQ太郎」風のかわいらしいキャラクターになりつつある。

話を『ギド・ミシュラン』に戻すと、1920年まで無料配布だったこの便利冊子が1922年から有料化するについては、一つのエピソードがある。営業のため、ある修理工場を訪れた兄弟は、修理工が傾いた作業台のバランスを取るため台脚の下に『ギド・ミシュラン』を数冊置いているのを発見、無料配布では顧客から価値を認められないという事実を認識するに至ったのだ。
しかし、有料化するには、それなりの付加価値をつけなければならない。こうして1926年に考え出されたのが、優良レストランに星マークを献上するというコンセプトである。1930年代には、レストランの格付けを厳しくするため、二ツ星と三ツ星を追加。かくして、レストラン・ガイドとしてグルメたちからも高く評価されるようになったのだ。『ギド・ミシュラン』の表紙は、先行する旅行ガイドブック『ギド・ブルー』にならって最初のうちはブルーだったが、1931年からは差別化を図るため赤に統一、こうして、『ギド・ミシュラン』は『ミシュラン・ルージュ』と呼ばれるようになり、ミシュラン社員による覆面調査が話題を呼ぶようになったのである。

また、ミシュラン社は1910年から道路地図の販売に乗り出すと同時に、国道の番号化、道路標識の統一化、信号柱の設置などに関してキャンペーンを展開、フランスのドライブ・ライフの向上につとめた。その一方で、地方文化を掘り起こすために、詳細な旅行ガイドブック『ミシュラン・ヴェール』を1945年から発行、こちらでも三ツ星システムを採用し、観光文化の発展に寄与した。

このように、ミシュラン社は、当初、自社のタイヤの販売促進のためにガイドブックを発行したのだが、ガイドブックに星マークによる格付けシステムを採用したことかかいしゃら、ガイドブックの発行元として人口に膾炙するようになったのである。
これも、立派な企業文化の在り方の一つだろう。『ミシュラン・ルージュ』の日本上陸で、ミシュラン社の企業精神も日本に伝わることを期待しようではないか。


鹿島 茂
1949年神奈川県生まれ。東京大学文学部仏文学科卒業、同大学大学院人文科学研究科博士課程終了。専門は19世紀フランス文学。現在、共立女子大学教授。91年『馬車が買いたい!』でサントリー学芸賞、96年『子供より古書が大事と思いたい』で講談社エッセイ賞ほか、著書多数。自称「レストランもホテルも一ツ星愛好家」。腕時計、ペン、 ミニカーと、ミシュラン・グッズのコレクターでもある。

本記事は雑誌料理王国第159号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第159号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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