「数年前までの傾向として、公邸料理人にはベテランの方や年齢層の高い方が多く、そういう人しかなれないという印象が強かったように思います。しかし、そんなことはありません。意欲的に料理に取り組み、心のこもったもてなしのできる若い人の挑戦が求められています」
こう語る伊藤さんも22歳という若さで、在ジュネーブ国際機関日本政府代表部の公邸料理人になった。ただ伊藤さんの場合はやや異例のケースといえる。日本の調理師専門学校を卒業後、フランス校へ留学していた時に伊原純一大使から学校へ問い合わせがあり、大使とのやり取りを経て任命され、それから国際交流サービス協会へ登録という段階を踏んでいる。
自らの体験を通して伊藤さんは、「特別な経歴は必要ありません。柔軟で好奇心旺盛、気力も体力も充実している若い時に経験しておくと、絶対に将来のためになります 」とアドバイスする。失敗もあるだろうが、失敗したら反省して直せばいい。人間は成功体験だけでは成長しないのだから。
「海外ではトラブルも含めていろいろなことが起こりますが、その変化をマイナスではなく刺激と受け止めて吸収することができるのも若いうちだからと思うのです」
現在のフランス (パリ) は2か国目。最初に赴任したスイスもそして今も和食を専門とする料理人と2人体制で、少人数の会食から何百人ものゲストが集う大パーティまでこなしている。大使と話し合ってメニューを調整していくのは伊藤さんの仕事。和食の担当者と相談して、より質の高い料理に仕上げていくためにもフレキシブルな感覚が必要だ。
「ジュネーブとフランスはどちらも公邸ですが、国際機関日本政府代表部のほうには世界各国からお客さまがお見えになったのに対し、フランスでは主にフランスと日本からの方に限られる。タイプの違う2つの赴任先を経験できたのもよい勉強になっていると思います」
ただし、現在の赴任先であるパリは美食の都。そこでフランス料理を作ることにプレッシャーがないといえば嘘になる。赴任後間もなくは身構えることも多かった。「でも、気負わずに伊藤流で勝負できるように精進しよう、日本とフランスの架け橋になるような“イノベーティブ・フュージョン”を自分なりに追求しようと覚悟を決めました。そういう思い切りができるのも若さ故といえるのではないでしょうか」。
公邸料理人の仕事は料理を作るだけでなく多岐にわたる。そのため、料理そのものについての知識や技術はもちろん、メニュー構成、料理と飲料のペアリング、仕入れ、会計管理、厨房設備や器具の管理、さらにコミュニケーションの重要性や他国の歴史や文化に至るまで、さまざまなことを学ぶチャンスに恵まれる。
「よく言われることですが、美食にゴールはありません。美食の可能性を広げるためには若いうちから知見を広げて、将来や新時代に向けての種まきをすること。それが可能なのが公邸料理人という仕事なのです」
text 上村久留美
本記事は雑誌料理王国2020年12月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2020年12月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。