【新連載・受け継がれる銘店】130年以上続く和菓子屋を継ぐということ 佐賀「元祖吉野屋」吉村正則さん


こし餡を白玉で包んだ「白玉饅頭」は、佐賀を代表する和菓子だ。地域密着型の商売を続けてきたため、この逆境でも売り上げへの影響は小さいという。今回は、明治から続く老舗和菓子屋の六代目をご紹介する。

130年以上、佐賀で愛されてきた味

足下の逆境は、観光で支えられてきた地方の菓子店に大きなダメージを与えている。そんな今だからこそ、原点に帰ろうという声がある。つまり、効率化や価格競争から一歩離れ、お客様に目を向けて持続的な商売を続けていこうという声だ。考えてみれば、100年企業が多い日本では多くの老舗が行ってきた経営努力だと言えるだろう。

白玉饅頭は明治15年に、材木業を営んでいた初代吉村清兵衛が避暑地として賑わっていた川上峡の名物として売り出した。ルーツは中国南部の紹興団子にあるといわれ、シュガーロードの影響もあるという。佐賀産の厳選した上質米と北海道の小豆餡を秘伝の製法で作った白玉饅頭は人気を博し、以来130年以上、地元の方々に愛されている。

素人が高知から婿養子としてやってきた

白玉饅頭「元祖吉野屋」の現当主・六代目吉村正則さんは、平成7年に婿養子としてやってきた。高知の実父からは「全く関わったことのないお菓子屋をやれるはずがない」と反対された。最初は、方言の壁もあって、饅頭の生地作りを教えてもらうにも言葉を理解することすらできず苦労したという。

そんな生地作りも、当時83歳だった4代目の妻ソヨに「筋がいい」と褒められ、自信を持つようになった。やがて、持ち前の社交性を発揮して地元の商工会青年部に多くの仲間ができ、地域社会に溶け込んでいく。そして、老舗和菓子屋の入り婿としての最初の苦労を周囲の支えで乗り越えた後、彼が取り組んだのが原材料の見直しだった。

白玉粉を挽いて捏ねる日々で、考えたこと

元祖吉野屋は、白玉饅頭専門店(現在はカフェ併設)である。それだけに、総合的な和菓子屋のように白玉粉を仕入れたりはしない。地元産の米を石臼でつき、自店で白玉粉を作るのだ。その粉をこねて蒸した生地を、再度こねてこし餡を包み、再度蒸す。二度こね二度蒸しすることで、モッチリとした歯切れのよい稀有の食感を引き出している。

材料は、うるち米と小豆と砂糖、そしてほんの少しのお塩だけしか使わない。初代が考案した製法そのままに、添加物も保存料も一切使用してこなかった。六代目は、その幹を守りつつ更に磨きをかけた。契約農家に専用のお米を作ってもらうようにし、あんこもより上品な甘みがでるように複数ブレンドした。やがて、磨き上げた白玉饅頭を、より多くの人に届けたいと考えるようになった。

夢は、200年続く白玉饅頭屋さん

そこで注目したのが、急速冷凍技術だ。蒸したてを急速に冷凍することで品質を損なうことなく保存できるようになった。試行錯誤を重ね、厳格な五代目も首を縦にふってくれたという。これによって地方発送や百貨店での催事が可能になり、生協との取引も始まった。佐賀で長く愛されてきた味が、今ついに大きく羽ばたこうとしているのである。

しかしここに至っても、六代目は「ただの饅頭屋です」と謙虚な姿勢を崩さない。生地の話になると「気に入らず捨てることもあります」と強いこだわりをみせるが、普段は極めて自然体だ。話の最後に「ここまでやってこられたのも、家族のおかげですよ」と笑った。この笑顔が家族やお客様を惹きつける。200年企業も夢ではない。

吉村正則 MASANORI YOSHIMURA 1970年高知県生まれ。愛知県の大学に進み、東京の大手印刷会社の商社に入社。就職先で奥様と知り合い結婚。佐賀の老舗白玉饅頭屋「元祖吉野屋」の婿養子となる。当初は、方言が理解できずに苦しんだものの4代目の妻ソヨから「筋がいい」と褒められ、白玉饅頭作りが楽しくなったという。その後、原材料の見直しなど吉野屋の発展に尽力してきた。急速冷凍技術の導入にも成功し、地方発送や卸の対応が可能になった。跡継ぎも育ち、現在の夢は200年続く白玉饅頭屋にすることだ。

■ 元祖吉野屋 冷凍 白玉饅頭 (3個入×10袋)

■飲食店の方へ
白玉饅頭「元祖吉野屋」では飲食店向けの卸もやっております。デザートメニューとしてご検討される場合は、下記ホームページからお問い合わせください。
http://yoshinoya-net.com/

TEXT=吉村博光


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