博多はそば・うどんの発祥の地といわれる。もっとも、博多以外にそば・うどんの発祥を名乗る場所はいくつかあり、真偽のほどは定かではないが、いずれにしろ、留学僧らによって中国からもたらされたことに異論はないだろう。なので、そば・うどんの発祥の地が博多であるとする、その説にフォーカスを当てて話を進めるとしよう。
JR博多駅から歩いて15分ほどのところに、承天寺という禅寺がある。仁治3(1242)年開山。時は鎌倉時代。奈良から平安にかけて官営の迎賓館として栄えた鴻臚館時代、平家によって 袖そでの湊みなとと呼ばれる人工港が形成された頃を経て、時代は宋人たちによる南宋貿易時代へと突入し、博多が貿易港として大いに発展していった時代である。
当時の博多は、チャイナタウンといえる大唐街が形成されていたという。福岡市中央区には唐人町という地名があり、この界隈も大唐街だったようで、その名残だと考えられる。そして、承天寺をはじめ、お茶の発祥の地とされる聖福寺、誓願寺、建久報恩寺などの寺院も次から次へと建立され、あたかも中国の港町のようだったとされる。つまり、中世の時代には、博多は大陸からの玄関口の役割を担っていたと言っていいだろう。
この頃、かつて行政上大きな役割を担っていた大宰府はその権威を失いつつあり、大陸との玄関口としての外港にすぎなかった博多は、交易都市としてますます発展していったのである。14世紀、倭冦が中国や朝鮮まで出向くようになり、多くの中国人や朝鮮人を引き連れてくるようになったことも、その繁栄に拍車をかけたと思われる。それは江戸時代、鎖国が実施されるまで続いたことであろう。
当時の博多の様子についての話が長くなったが、鎌倉時代に建立された承天寺こそが、そば・うどん発祥の地とされ、境内には「饂飩蕎麦発祥之地」という石碑が建てられている(ついでに言うと、饅頭発祥、山笠発祥を表す各碑も並びに建っている)。開祖は聖一国師しょういちこくし。宋で学んだ人物である。この寺院の創建にあたっては、宋人、謝国明しゃこくめいの支援が大きかったといわれる。謝国明は現在の華僑のようなものといえば、イメージしやすいだろうか。自身の船団を持ち、宋と博多間の貿易で財を成した人物である。博多に住居を構え、日本に帰化し、日本名も持っていた。
宋で学んだ聖一国師が、禅の思想以外に多くの文化を持ち込んだことは想像に難くない。ただし、それだけだと、そば・うどんを発祥とするには説得力に欠ける。そこには定打ともいえるものが残っているのである。それは、宋から持ち帰った画「水磨の図」。これは、麦やそばを粉にする技術が伝えられたことを示しており、これによって日本で本格的な粉食文化が始まったとされる。
むろん、それまでに、粉食がなかったわけではない。奈良時代に遣隋使や遣唐使によって伝えられた唐菓子によって、日本の粉食文化は始まったと考えられている。『古事記』にも小麦の記載があることから、8世紀には食べられていたのは間違いないだろう。
この唐菓子の中には、現在の麺類の原型といえる、野菜や肉のあんを小麦粉の生地で包んだ〝餛飩こんとん〞や、小麦粉を固めてねじった〝麦縄むぎなわ〞などがある。これらは庶民にとっては到底手の届く代物ではなく、貴族の食べ物であった。石臼という画期的な方法が登場するまでは杵を使う搗つき臼が使われており、効率的な製粉にほど遠かった。
ちなみに、福岡県太宰府市の観世音寺の境内には、〝碾磑てんがい〞と呼ばれる石臼がある。これは『日本書紀』にも登場する日本最古かつ最大の石臼とされ、推古18(610)年、高麗の王が献じた僧、曇徴どんちょうが作ったとされる。ただし、この石臼、小麦など食品のためではなく、鉱石などを粉砕するためのものだったようだ。
製粉技術を伝える画「水磨の図」に話を戻そう。聖一国師が宋から帰国する際に持ち帰った、諸寺の設計を記した「大宋諸山之図」。その末尾にあるのが、水車製粉工場の設計図「水磨の図」だ。水車と歯車が連動して粉を挽く仕組みが克明に記されており、絵画でありながら、石臼式水力利用製粉装置の立面図でもある。この石臼の画に麺と記されている。
この時代の麺とは、小麦の砕けたものを意味する。そのことからもこの画を持ち帰ったことが製粉、ひいては製麺に大きく助力したことは間違いないだろう。博多がうどん、そばの発祥と地とされる所以である。この「水磨の図」を含む「大宋諸山之図」は、京都の東福寺に所蔵されており、国宝、重要文化財に指定されている。なぜ博多の承天寺ではなく京都の東福寺、と思われる方がいるかもしれない。東福寺は、聖一国師が承天寺を開いたあとに、京都で開山した古刹だからだ。補足ながら、承天寺は臨済宗東福寺派である。
しかし、である。この「水磨の図」が持ち帰られてすぐに、粉食が普及し、うどんやそばが人気を博したわけではない。実際に、石臼が広く日本全国にいき渡ったのは江戸時代初期のようである。室町時代の『庭訓往来』にうどん、そうめんなどの名が記されているものの、庶民の食べ物として広く一般に普及するのは、石臼の普及と符合するように、江戸時代になるのでなる。
江戸時代には博多の町でたくさんのそうめんが作られていて、貝原益軒『筑前国続風土記』においては、そうめんは博多の名物だったと記されている。しかし、そうめんは、長時間天日干しにするなど、その工程に時間がかかる。うどんは作ったらゆでてすぐに食べることができるため、庶民の間でうどんがより普及したと考えられる。
ほかに博多でうどんが人気となった理由はいくつかあるが、ひとつは、博多近郊で小麦が作られていたことがある。現在も全国有数の小麦の産地であり、江戸時代にも小麦作りは盛んで、製麺所が多かったようだ。
また、かつて博多湾一帯は塩の産地であり、だしに使うイリコやアゴ(トビウオ)が豊富に捕れていたことも関係するだろう。調味料である醤油、みりん、砂糖が庶民に広まったのは江戸時代であることからも、江戸時代に一般に食べられるようになったと考えてよいだろう。現在のような麺に汁をかける食べ方は江戸中期以降に始まったともいわれ、これらの条件が揃う時期と見事に合致する。
一方、そばについては、最近でこそ博多でも本格的なそば専門店があるが、うどん屋に比べるとその数は圧倒的に少ない。大正時代ぐらいまでは、博多では生そばの店が珍しかったようである。
時代をやや遡り、1800年代の江戸の町の話。約6100店あった飲食店のうち、半分近くの3000店ほどがそば屋だったという。それまでは、江戸でもうどんが人気があったようだが、そばの普及やそばが脚気防止に効能があるとされたことから、そばがうどんの地位に取って代わることになった。
これはおそらく、土壌や気候条件によるものだろう。そばは寒冷でやせた土地でも栽培できる。しかし、温暖な気候に恵まれ、米もできれば小麦も採れるとあらば、わざわざそばを作る必然性がなくなるのではあるまいか。博多に限らず西日本がうどん文化というのは、そういったことに起因すると考えてよいだろう。そのため、博多ではそば文化が発達しなかったと考えられる。
年越しそばの由来についてはおもしろいエピソードが残っている。承天寺の創立に尽力した謝国明が、鎌倉時代、博多が飢饉に見舞われた時に、そばを振る舞ったのが最初だというものだ。このそばは現在のような切りそばではなく、そばのかいもち(そばがき)であったとされる。ただし、これは憶測の域を出ない。食べ物を振る舞ったことは確かなようだが、そばという記述はどこにも残っていないからだ。ともあれ、このおかげでどうにか年を越せたことから、博多では年越しにそばを食べる習慣ができたというわけだ。
余談ながら、その年明けに中国から多くの船団がやってきて町が非常に賑わったことから、験を担いで「運そば」と呼ぶようになったともいわれる。
この当時のそばは、現在食べているものとは異なる。現在のタイプは〝そば切り〞と称され、江戸時代に創作された、いわゆる麺。それまでのそばの食べ方は、そばのかいもち(そばがき)やそば焼きであった。これらと区別するためにも、〝そば切り〞と呼ばれた。そば同様、そば切り発祥の地についてもさまざまな説がある。有力なのは、甲州と信濃。
17世紀前半に、朝鮮の僧が奈良の東大寺で、麺としてのそばの技術を伝えたとする説もある。
現在、博多はラーメンの街としてつとに有名である。確かにラーメンはよく食されるが、実はうどんこそが博多の人々のソウルフードなのではないか。博多うどんを定義づけするのは難しいが、ふんわりやわらかく、やや大げさな言い方だが箸で持つと切れそうな麺が特徴である。讃岐うどんなどコシのあるうどんに慣れている向きにはのびていると思われるかもしれない。
やわらかいのには理由がある。それは、博多が商人の街だったことが大きい。せっかちで食事を早く済ませたいために、さっと注文して、さっと出て来て、さっと食べられるものが好まれたからである。そのため、もともとは調理時間短縮のためにゆでおきされ、それが次第に、あらかじめ芯までやわらかくゆでるようになったのである。実際に、博多のうどんの場合は、一般的なうどんのゆで時間よりも分程度長くゆでられるようだ。
だしは、昆布、かつお節、イリコ、アゴなどの魚種を数種類使ってたっぷりとり、淡口醤油で仕上げるのが一般的。基本は薄味である。このうどんのだしは〝スメ〞と呼ばれる。だしがきれいに〝澄んで〞いる、それがなまってスメとなったようだ。
もうひとつの特徴がトッピングである。代表的なのがゴボウ天。ゴボ天とも呼ばれるゴボウの天ぷらだ。店によって異なるが、ゴボウを薄切りや千切りにして天ぷらにしたもので、かき揚げタイプを提供するところもある。ほかに丸天もあり、これはいわゆる天ぷらではなく、魚のすり身を油で揚げた練り物。薄く丸い形をした、甘くないさつま揚げのようなものといえば想像しやすいかもしれない。
そして、ほとんどの店で、きざんだ青ネギがテーブルに置かれてあり、これは入れ放題である。同様に天かす(揚げ玉)をおいている店も少なくない。
博多においてうどんは食事というよりも、食事の間の軽食。消化をよくするためにやわらかい麺になったとする説もある。
大正の終わりから昭和の始め頃までの一般家庭の食生活においても、小麦や裸麦を使った麦料理は、よく登場していた。現在も、このエリアの味噌は基本、麦味噌である。小麦粉を使って、まんじゅうやだんご汁のほか、手打ちうどんも作られていた。ただし、外で食べるのと違い、家でうどんを打つのは手間がかかるもの。どちらかというとハレの意味合いが強いものだったようである。
石臼がもたらされて以降の、うどん、そばについてたどってみた。これらの発祥の地といわれる承天寺では、10月7日の開山忌(実際は聖一国師の命日は10月17日だが、事情により、承天寺では10月7日を開山忌としている)には、饂飩供養が行われ、うどんが振る舞われる。また、8月21日の〝謝国明千灯明祭〞では、同じくそばのふるまいが行われる。聖一国師が持ち帰った石臼の技術が、今日の日本の麺文化の礎となったともいえ、それに感謝してのこと。時代によって姿、形は変われど、博多の町では、麺文化はどっしりと根を下ろしている。
羽根則子・文/構成/写真 text, construction & photo:Noriko Hane
参考文献
『博多』武野要子(岩波書店)/『博多学』岩中祥史(新潮社)/『聞き書福岡の食事』(農山漁村文化協会)/『ふるさとの食』(アクロス福岡文化誌編纂委員会)/『伝承写真館日本の食文化11九州1』(農山漁村文化協会)/ 『福岡県文化百選6味編』福岡県(西日本新聞社)/『ハカタ語会話』博多華丸・大吉(マイクロマガジン社)/『麺の文化史』石毛直道(講談社)/『誰も知らない中国拉麺之道』坂本一敏(小学館)/『日本人は蕎麦のことを何も知らない』山縣基与志(学習研究社)/ 『人間は何を食べてきたか「アジア・太平洋編」(上)麵、イモ、茶』NHK取材班、奥村彪生、西山喜一、松下智(日本放送出版協 会)/『文化麺類学・ラーメン篇』奥山忠政(明石書店)/『日本の味探究事典』岡田哲(東京堂出版)/『食材図典II』(小学館)/『世界食物百科』マグロンヌ・トゥーサン=サマ(原書房)/『世界食文化図鑑』メアリ・ドノヴァン、スージー・ワード、クレア・クリフトン、ジェニー・ステイシー(東洋書林)/『料理と食シリーズ4そばうどん麺料理』(旭屋出版)/「麺の世界」4号・14号(麺の世界)/「麺都博多」(福岡市麺類商工組合)/「モンタン」2003年12月号(ヒューマンエナジー研究所)
/「福岡2000」2001年2月号(プロジェクト福岡)/「西日本新聞」/よかなびweb
本記事は雑誌料理王国第212号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第212号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。