ロシアを代表するシェフとして活躍するウラジミール・ムーヒンさん。モスクワに斬新なレストラン「White Rabbit」を開店するや、その革新的な料理はロシア料理を新たな次元に導き、シェフは時代の寵児となった。16年には「世界のベストレストラン50」で18位にランクインし、モスクワっ子のみならず世界中から美食家が訪れるようになった。34歳の若き天才シェフが、世界に発信する最先端の料理とは?
ロシア料理界の革命児と称されるシェフに、その想いを聞いた。
──ピロシキやボルシチがロシア料理の代名詞のようにいわれていることをどう思われますか?
それは本当のロシア料理ではありません。そうしたステレオタイプが蔓延した原因は、ソ連時代の影響が大きいと考えています。
──どうしてでしょうか?
ソ連時代の75年間ほど、世代でいうと二世代半にわたって国境が閉ざされ、料理人は自由に料理を作れなくなりました。料理は、変形されてつまらないものになってしまった。1991年にソ連が崩壊し、ロシア連邦になると海外からジャーナリストが入ってきましたが、当初、世界に紹介されたのは、そうしたソ連時代の料理だったのです。
──ソ連時代はどのような暮らしだったのですか?
私も物不足のソ連時代に育った世代で、一般の人たちは、行列に並んで物を買い、トイレットペーパーや食材を手に入れるのにとても苦労しました。
──ご一家は代々料理人ですよね。
私で五代目。そのおかげで、家の冷蔵庫にはバターもキャビアもなんでもありました。私は5歳から料理を始めて、好奇心から金魚を焼いて食べちゃったこともあります(笑)。祖母も母もいろんな料理を作り、ボルシチや、ブリニというロシアのそば粉のクレープ、ニシン料理などの凝った料理が、普通に食卓に上っていました。
──以前、サンクトペテルブルクを訪れた時は、おいしい料理と巡り会えず苦労しましたが……。
ソ連時代、クリエイティブな料理は作れなかったんです。今では好きな料理を作れるようになりました。でもまだ、料理人たちの心の奥にはブロックがかかっていて、自由に作れない部分もある気がします。しかも、当時のソ連にはレシピ本が2冊しかなく、最初に編集された1冊は1953年のもの。私の祖父は名の知れた料理人で、有名なレストランにいたのですが、決まった料理しか作れないことを、いつも嘆いていたそうです。その話は、祖母がメモ帳にドラマチックに書き残しています。
──どう乗り越えたのですか?
外で自由に作れないのは、料理人にとっては悲劇です。そこで家では新しい料理を発明し、いろいろなものを作っていましたね。祖父が作る料理はおいしいと評判で、レストランには、市長を始めVIPたちが食べに来ていました。ところがある日、いきなり警察が来て祖父は逮捕されてしまったんです。料理人にとって本当に厳しく辛い時代でした。
──抑圧された時代があったからこそ、革新的な料理が生まれた?
結果的にはそうかもしれません。祖父はその後、「サラダとカクテル」という本を出しました。当時のソ連ではかなり革命的で、祖父が生み出した料理は、多くの人々、私にとってもインスピレーションの源になっています。
──ロシア料理の改革者といわれていることをどう思いますか?
ロシア料理について、発言し続けることが大事だと考えています。新しいとか、古いという言い方は好きではない。現在のロシア料理は進歩し、私もそのように仕掛けてきました。しかし、それにはずっと昔の、伝統の料理がきちんと息づいていることが必要だと考えています。
──例えばどんな料理ですか?
広大なロシア国内をあちらこちら旅して回り、各地に残る昔ながらの技術をたくさん習ってきました。そのひとつが、暖炉でありオーブンでもある「ペチカ」で作る料理です。豚の燻製を始め、伝統的に燻製にする料理が多かったですね。
──なかでも印象的なものは?
「木曜日の塩」という、おそらくロシア正教の前から続く、イースター前日の木曜日に身を清める聖なる塩です。800度以上の熱が必要で、ペチカでしか作れません。これは単なる塩ではなく、ライ麦やニンニクを混ぜ、発酵させたキャベツの葉で包み、さらに布とわらじで包んだものを4時間ほどかけ、祈りの言葉を捧げながら焼いて作ります。ロシア最初のスパイスで、作り方はほとんど忘れられていて「幻の塩」でしたが、94歳のおばあさんが教えてくれました。私はこうしたロシア各地の古い話や伝承を集めているんです。
──集めて、どうするんですか?
得た情報はモスクワにあるラボ(研究所)に持ち帰り、最新の技術を用いて研究し開発しています。「木曜日の塩」は食材として使うし、ピクルスの汁を使った「オクロシュカ」という伝統のスープも、アレンジして現代に蘇らせています。
──なぜそのようなことをしようと思ったのですか?
自分の国に誇りを持っているからです。自国の料理を追求して世界に発信していきたいんです。世紀はオンラインの世ですが、味はオフラインの世界。ロシアの伝統の味を大事に保っていきたいというのは、私の信念でもあります。
──ロシア料理は以前とは変わりましたか?
国交が自由になった現在は、いろんなことが急速に進んでいます。ロシア料理もまた、早いテンポで進化し、最先端の料理を求めて海外からも訪れる人が増えています。
──具体的にはどのような料理なんでしょうか。
ロシアでは、まだ輸入が制限されているため、料理に使う野菜などの食材は自国でまかなっています。私のレストランを例にとると、5つの農園と提携して無農薬の野菜を仕入れ、トナカイなどの野生の動物、シーフードも豊富に使っています。ホタテやウニ、キュウリウオという日本海の新鮮な魚介を使った「ウラジオストックセット」というメニューも用意しています。
──食材は多彩で豊富なんですね。
ロシアはとても広いので、ザ・ロシア料理という決まったものはなく、地域で食材も伝統料理も異なり、幅が広い。また、ユニークな食材が多く、よく使われるリンゴも、ピュレにして料理に使ったり、食べ方もバリエーションに富んでいます。ロシア料理は奥が深いんです。
──伝統の食材、技法を用いて進化させることで、あの革新的な料理は誕生するんですね。
見た目は美しい未来の料理でありながら、おふくろの味のような、舌の記憶を呼び覚ます懐かしい味を目指してきました。私にとって料理は会話の手段。ひと皿の料理の方が、言葉よりも伝わると思います。
──ウラジミールさんの成功は、若い料理人の目標になりますね。
「家族に問題があっても、同じ食卓を囲んで朝食を食べているなら、その家族には将来性がある」は、ロシアの有名な言葉です。私が求めているのは名誉ではなく、料理で人の輪をつくり、思い出を作ってもらいたい。それが一番大事なんです。
──興味深いお話を、ありがとうございました。
Vladimir Mukhin
1983年、ロシア南部生まれ。代々料理人を輩出する一家の5代目シェフ。5歳から料理を始め、12歳で父親がシェフとして働くレストランに入る。「ベオグラード」を始め、ロシアや海外の名店を経て、2004年にシェフ全国組合の最年少シェフに。12年に共同経営で「White Rabbit」をオープンし、13年にはロシアのベスト・ヤング・シェフに選ばれた。 17年「世界のベストレストラン50」では 23位に。
民輪めぐみ=インタビュー 御門あい=構成 星野泰孝=撮影
本記事は雑誌料理王国285号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は285号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。