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文化のない料理には何も残らない「オステリア・フランチェスカーナ」紺藤敬彦さん


自分がどこから来たかを認識する。文化のない料理には何も残らない。

オステリア・フランチェスカーナ 紺藤敬彦さん

 ミシュラン三ツ星、「世界のベストレストラン50」で世界第位をはじめ、現在考えうるあらゆる賞を独占しているのがイタリア・モデナの「オステリア・フランチェスカーナ」。そのシェフ、マッシモ・ボットゥーラ氏はエネルギッシュかつ哲学的な言動から、イタリア料理界のカリスマとして世界中から注目されている。そのボットゥーラ氏を長年にわたり支えているのが、日本人の料理人、紺藤敬彦さんだ。

「オステリア・フランチェスカーナ」のシェフ、マッシモ・ボットゥーラ氏は、以前こんな話をしてくれたことがある。日本を訪れたある夜、「すきやばし次郎」で食事していた時のことだ。小野二郎氏が寿司を食べているボットゥーラ氏をじっとみつめて、「あんた、前世は日本人だな」と言ったそうだ。

「二郎がいうように、おそらく自分の前世は日本人なんだろうと思う。だから日本との関わりは深く、フランス人でもなく、アメリカ人でもなく、日本人のタカを自分の右腕として選んだんだ」と語ってくれた。タカとは現在「オステリア・フランチェスカーナ」でスーシェフを務める紺藤敬彦さんのことだ。

紺藤さんは、日本を始め世界中からイベントや表彰式などにひっぱりだこのボットゥーラ氏とともに世界を旅し、氏の不在時には「オステリア・フランチェスカーナ」の代表として厨房のスタッフをリードし、店全体を指揮する。「オステリア・フランチェスカーナ」の名声は紺藤さんの存在なくしてはありえないのだ。

マッシモ・ボットゥーラ氏を中心に2人のスーシェフ紺藤敬彦さんとダヴィデ・ディ・ファビオさんが、両脇を固める「オステリア・フランチェスカーナ」のスタッフ(2015年9月撮影)。世界中から集まる研修生の面倒を見るのも紺藤さんとダヴィデさんの役目だ。

人と同じことはやりたくないとイタリア料理を志す

 高校卒業後、「人と違うこと」をしたくてヘアメイクを志望した紺藤さんに、「子どもの頃から料理が好きだったんだから」と、アドバイスしたのは両親だった。

「父も兄も、昔から母の料理をなんでもおいしいといって食べた。でも僕は、いつもなんだかんだ言っていた。だから母も、僕に料理を作るのは嫌だと言っていました」

 その頃はピッツァとスパゲッティぐらいしか知らなかったが、とにかく人とは違うことがやりたくて、イタリア料理を選んだのだと言う。

 最も影響を受けたのは、当時「ヴァルダルノ」のシェフで、イタリアから帰って来たばかりの石川淳太さんだ。石川さんからイタリアの話を聞きながら働くのは新鮮で、イタリア料理をやっているのにイタリアを知らないわけにはいかない、とイタリア行きを決意した。いったん帰国し、2004年に26歳で再渡伊した紺藤さんは、ミラノの「サドレル」で働き始める。そんな時期「マッシモ・ボットゥーラ」を知ったのだ。

「あのころのマッシモは、エスプレッソ誌で表彰された注目のシェフでした。興味を持って食べに行ってみると、もちろんおいしかったし、人とは違うことをしているのがすぐに分かった。僕も、人と違うことをやりたくてイタリアに渡ったんです」

 まもなく紺藤さんはボットゥーラ氏の元で働き始める。一度スペインで働こうと、ボットゥーラ氏の説得にも応じず店を辞めたが、結局スペインには行けず、再度ボットゥーラ氏の元に戻ったら、3カ月ほど口をきいてもらえなかったという。

Miseria e Nobilita 「貧しさと貴さ」
2015年のミラノ万博のテーマであったフードロスを主題にした料理。生ハムの骨とパルミジャーノの皮でとったブロードを飲みながら、牡蛎をつまんで味わう。骨や皮など廃棄対象の食材に光を当てて味を引き出す。貴と貧のコントラストを表現するが、実はブロードにこそ価値がある料理。

ボットゥーラとともに二ツ星、そして三ツ星を獲得

 紺藤さんと同時期に「オステリア・フランチェスカーナ」に入ったのが、現在紺藤さんと同じくスーシェフを務めるダヴィデさんと、後に独立してミラノに「TOKUYOSHI」を開店し、わずか10カ月で一ツ星を獲得した徳吉洋二さんだ。紺藤さんがボットゥーラ氏とともに働くようになってから「オステリア・フランチェスカーナ」は一ツ星から二ツ星、そして12年には三ツ星を獲得。三ツ星を記念して当時のスタッフが壁に残した寄せ書きには、「紺藤敬彦」の名が日本語で堂々と書いてある。「働き始めた時はこんなに長くいるとは思いませんでした。少し働いたあと日本に戻るのかな、と。でもいまは日本に帰るイメージが全くない」

 ボットゥーラ氏は、常に言う。「自分が学び、吸収したことを表現することができれば、どこにいようと関係ない」と。イタリアでも、日本でも、世界中のどの国でも。それよりも大事なのは、自分がどこから来たか、何を背負っているか、それを認識するということ。つまり自国の文化を認識することが重要で、文化のない料理には何も残らないと。

事務所でボットゥーラ氏と語り合う紺藤さん。共有した時間が新しいレシピの源となる。

 現在「オステリア・フランチェスカーナ」には「働きたい」というメールが毎日届き、時には世界中からの研修生たちが40人を超えることもある。紺藤さんはそうした若者たちにイタリア料理を教え、料理人とは何かを教える役目も担っている。現代の若い料理人の卵たちは、テレビで見るスターシェフの姿に憧れて料理の道を選ぶ者も多いが、そんな簡単な問題ではないという。

「僕たち代の料理人は、マッシモのようなトップシェフと、それに憧れる若い料理人たちの中間にいます。彼らがどうなっていくのかは、僕たち次第」と紺藤さんは言う。テレビに出て活躍するのが料理人の目的ではない。例えば、現在ボットゥーラ氏が取り組んでいる廃棄食材をなくす料理。それを紺藤さんの世代が、若い料理人に伝えなければならない。そういう料理が、将来スタンダードになっていくこともあるだろう。

「いま僕は『オステリア・フランチェスカーナ』に集中しているので、40代にどうするか具体的に考えていません」と紺藤さん。しかし、仮に自分のレストランをやるなら、自分が学んだものや食の大事さ、食文化を伝えることのできる店にしたい。自国の文化を伝えるのは本当に難しい。「でもイタリアにいる日本人としては、イタリアで日本の食文化を伝え、世界中の料理人と文化共有することで、世界の料理の発展に繋がれば、と願っています」

 料理を創造するには「直感」が必要であり、失敗した時にこそ成功のヒントがある。日本人は仕事に厳しく、こだわりも強いが直感的な仕事が苦手。しかし紺藤さんは直感的で、台本のない仕事の仕方をイタリアで学んだ。

「12年間、世界中を旅していろいろな料理を食べ、議論してお互いの考えを共有できた。タカが自分にもたらしてくれたものは多い。何より大事なのは、そうした時間の共有なのだ」とボットゥーラ氏は語った。

Yellow is bello「イエロ・イズ・ベッロ」
「黄色は美しい」という紺藤さん考案のドルチェ。イタリアでは3月8日「女性の日」に、女性にミモザの花を贈る習慣がある。レモン、黄色=女性をイメージする。アーティスト、ヨーゼフ・ボイスの作品「カプリバッテリー」に着想を得た。

Takahiko Kondo
1978年東京都生まれ。九州出身で料理上手の祖母の影響で、小さい頃から料理にうるさい子どもだった。高校卒業後イタリア料理の道に進む。「ヴァルダルノ」ではピッツァイオーロも経験。 2001年に渡伊、トスカーナとヴェネトで働いた後一度帰国するも04年に再度イタリアへ。「サドレル」勤務後、「オステリア・フランチェスカーナ」へ。現在、同店で同僚のダヴィデ氏とともにスーシェフを務める。

池田匡克=取材、文、撮影

本記事は雑誌料理王国263号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は263号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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