世界各国の一般家庭の“台所”をフィールドワークするという書籍が発売された。食文化をテーマにした書籍としては、一風変わったテーマなのでなんだかとっても気になった。
その名は「世界の台所探検 料理から暮らしと社会がみえる」(青幻舎)。自らを「台所探検家」と称する著者の岡根谷実里さんは、レシピサービスのクックパッドの社員として働きながら、休暇を利用して世界各地を訪ねてきたという。これまでに訪れた国と地域は60以上。その中から16の国と地域の22の“台所”を選りすぐり、収録している。コソボ、コロンビア、スーダン、ボツワナ、パレスチナ…。辛うじて耳にしたことがある…程度の国の台所事情や家庭料理にまでは、さすがに想像が及ばない。
「当たり前に作っていた(食べていた)料理を見つめ直すことによって、世界が広がり食べることがより楽しめるようになる。この手法って、外国の料理だけじゃなく、私たちの日常の料理に対しても応用できることです」
「台所は、食文化と社会学のフィールド」だと岡根谷さんは言う。本書でも彼女なりのフィールドワークを、リアルな現場感とともに味わえる。入口は必ず各地の家庭の台所だ。そこで作られる料理やその料理を構成する食材の紹介を読み進めるうちに、その料理をつくる人の暮らしぶり、彼らを取り巻くご当地の社会環境、紹介された料理を包む文化的な背景や経済環境……という具合に、読者はふと我に返ると“台所”ではないどこかへ連れて行かれていたことに気付く。
たとえばキューバ。どの家庭でもほぼ毎日のように食べているという「フリホーレス」と呼ばれる黒インゲン豆の煮込みの魅力については、読み進めるごとにじわじわと伝わってくる。
と同時に、以下のような、話題の“外側”にあるフリンジのような情報が随所に散りばめられているのだ。
▼キューバ革命以降ずっと続く経済制裁の影響で、いまだに食料配給制が維持されていること
▼米や黒インゲン豆などのメインの食材だけでなく、コーヒーも嗜好品ではなく必需品とされ配給の対象であること
▼配給の対象にはならない野菜や果物を求めて、何軒もの市場をはしごしなければならないケースもあること
▼化学肥料も安定的に輸入できないためキューバの農産物の多くは有機栽培であること
▼慢性的な食材不足とは不釣り合いなほどに、思いのほか家庭の台所には電気炊飯器・電気圧力鍋・電子レンジなどの家電が充実していることがあること
家庭の料理を紹介するだけでなく、家庭の食を取り巻く“環境”を観察し、レポートしてくれる点が岡根谷さんの仕事の魅力なのだ。
毎回どんな目標値を定めて取材に赴くのか? と訊けば、特別に知りたい料理や食材があるわけではないという。最低限の事前調査だけで飛び込んでいくのだ。「何を食べているのか? どんな暮らしなのか? 一緒に生活する過程で触れる今まで知らなかった暮らしを探すだけです。事前情報を持たずに出かけることで、その土地の気候や歴史だけでなく、人々の価値観が見えてくる」のだという。
どの国の食文化にもクセがある。得てしてそのクセは、地理と気候によって規定されていることが多く、その国の食文化の本質へ至る扉の鍵となるケースもある。海外の著名な料理人のつくる料理の味わいについての情報や、彼らが今考えている課題感などには、今やインターネットを介して、以前より容易にアクセスできる。インターネットの普及によって文化が、流通網が洗練されるごとにモノが、それぞれ行き交う頻度を増し、地球の時間距離が短くなればなるほど、各地の食文化のクセは家庭の台所でようやく残っている程度になっているのかもしれない。
高校時代に最も好きだった科目は「地理」だという岡根谷さん。地理学の世界では、さまざまな要素が関わり合って「物語」が浮かび上がった様子を「景観」と呼ぶそうだが、まさに本書は、各地の台所に散りばめられた要素を集め、組み立てた結果に「景観」を見せてくれる珠玉の章から構成されている。
▼「料理から暮らしと社会が見える 世界の台所探検」岡根谷実里(青幻舎)
http://www.seigensha.com/newbook/2020/10/29174834
▼岡根谷実里 | 世界の台所探検家(note)
https://note.com/misatookaneya
text 水 享一