日本の名店「浜作」三代目主人を唸らせた「とんかつ屋」


戦後間もなくの頃、我が国がGHQ、いわゆる進駐軍の占領下にあった一時期、社会党が政権をとり、片山哲内閣が発足致しました。その時、ある珍妙な政令が公布されました。食糧難を反映しての、いわゆる贅沢禁止令のようなもので、全国で十数を数える、高級料理店が営業停止になるというものであります。拙店も、その高級料理店に指定され、従来のお料理をお客様に提供することができなくなってしまいました。思案の挙句、初代主人である祖父は、思い切って、トンカツ屋へと転業いたしました。

幸い、片山内閣は短命に終わり、その政令は半年という短いものでありました。それに伴い、もとの日本料理屋へと復業した次第でありますが、九十年にわたる拙店の歴史の中でも、その半年間のトンカツ屋時代は実に興味深く、特筆すべき時代であります。トンカツ屋を始めるにあたって、河井寛次郎先生に器を注文し、大きく厚く切った最上のお肉をじっくりからっと揚げて、その重厚な器に負けないように盛り込みました。 当店は当時、「一力さん」や「冨美代さん」を代表とする、百軒に余るお茶屋さんへの出前を引き受けており、もちろんお料理は、純日本料理でございましたが、食糧統制下、なかなか戦前のように品数を揃えることは不可能に近いものがありました。そのご時世にぴったりとはまった、手っ取り早く召し上がれて、高カロリーで栄養満点の特製トンカツは大評判を呼び、連日何百食の注文をいただき、大繁盛したとのことであります。かの名匠・小津安二郎監督は、板前割烹に戻ってからも、スタッフ大勢とご来店の折には、その頃を懐かしみ、実に腹持ちの良いトンカツを度々ご注文なさったと聞いております。

私が東京出張の折、まず第一に食べたいと思い浮かぶものは、上野の「ぽん多本家」のカツレツであります。「カツレツ=トンカツ」発祥のお店として有名なこの老舗は、現在は四代目のご主人と、ご兄弟、ご家族、古くからの職人さんの少数先鋭で切り盛りされております。その仕事ぶりは一分の隙も無く、毎回いつ訪れても、快い緊張感、といっても決して堅苦しくない、端然とした清涼な空気に満ち溢れております。特に一階のカウンター席は、手順といい、清潔感といい、無言の内にも三人のプロフェッショナルが完璧な連携をもって一皿を完成なさるのを間近に見物することができる特等席であります。恐縮ながら、私ども板前割烹と目的を一にするお仕事の段取りであります。

低温でじっくり揚げた衣は、意外なほど白く、他店のようなこんがりとしたきつね色ではありません。皆さん最初はこの白いトンカツにびっくりなさいます。上品な桜色をした厚切りのお肉の火の通し具合は誠に完璧で、豚肉がこんなに柔らかく、豊かな味だったのかと再認識を致すこと必定であります。ソースもさらさらとした、後味の快い辛口で、甘ったるさもべたつき感も、微塵も感じさせません。炊き立ての御飯と御漬物、豚汁の組み合わせはまさしく完璧な定食でございましょう。一品一品のトンカツに、これだけの完成度を追求して、口の肥えたご常連を連日満足させるということは、本当に難しいことだと思います。この一品にすべてを集中させ、名物となさり、それを四代にわたって正しく継承されておられるこのお店に、同じ食べ物屋として、敬意を表さざるを得ません。私が目標としたい、江戸っ子を地で行く、きっぱりとした東京の老舗の代表であります。

ぽん多本家
東京都台東区上野3-23-3
☎03-3831-2351
● 11:00〜14:00(13:45LO)
16:30〜20:00(19:45LO)
日・祝のみ16:00〜20:00(19:45LO)
●月休
●カツレツ2700円、ご飯セット540円(各税込)
●24席

森川裕之 Hiroyuki Morikawa
日本最初の板前割烹である「京ぎをん 浜作」の3代目主人。料亭が主流だった昭和2年に著者の祖父・森川栄氏が創業。その一期一会の料理は谷崎潤一郎、川端康成をはじめ棟方志功、梅原龍三郎、北大路魯山人、マーロン・ブランドや中村吉右衛門などなど、時代を創った政財界人から文化人、芸術家を魅了してきた。著者近著に『和食の教科書 ぎをん献立帖』『ぎをん 丼 手習帖』。「家庭でも気軽に楽しめる献立作り」を視野に、月7回の料理教室を開いている。

京ぎをん 浜作
京都市東山区祇園八坂鳥居前下ル 下河原町498
☎075-561-0330
FAX 075-561-8007
●12:00~14:00、17:00~ 
● 水曜及び最終火曜日定休、要予約
http://kyoto-gion-hamasaku.com/

本記事は雑誌料理王国267号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は267号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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