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日本と欧米の中華料理年表 PART1


その国の歴史や国民性を反映する料理。今や世界中で愛され、現地ならではのメニューまで誕生している中華料理の裏側には、どんなストーリーがあるのだろうか?その歴史を紐解いてみよう。

1800年~1959年

海を渡った中国人が、日本や欧米に中華料理を伝える
古来より、日本の食文化は様々な形で中国の影響を受けてきた。豊富な食材や料理法が、いつ日本に伝わり定着したかは定かではない。江戸時代になり、幕府が鎖国政策をとるようになってからも、海外との窓口であった長崎の出島には、貿易を目的とした広東省や福建省出身の中国商人が数多く住んでいた。彼らの多くが、本国から使用人や料理人を伴っており、長崎には中国人向けの料理店があった。そんな長崎では、18世紀頃に和洋中の要素を取り入れた「卓袱(しっぽく)料理」が誕生。大皿に盛った料理を朱色の円卓に並べ、みんなで囲むもので、後に日本人がちゃぶ台で食事をするルーツになった。やがて幕末になると、中国人たちは通訳や貿易の仲介役としても活躍。「日清修好条規」で日本を訪れる中国人はさらに増え、各地に中華街ができた。しかし、日清戦争やその後の第二次世界大戦で、中華街は閑散となる。中華街に人が集まりはじめるのは終戦後だ。戦勝国民で優先的な配給があった中華街には闇市ができ、食べ物を求めて人が殺到した。また、1950年代には中国国内の混乱を背景に、腕に自信のある料理人が日本に渡るケースが増える。彼らの一部は、当時の田村町の高級中華料店で活躍。田村町はリトルホンコンと呼ばれ、賑わいを見せた。

当時の日本

1859年~
開国により、日本を訪れる中国人が増える
日米修好通商条約(1858年)」を機に、箱館・横浜・長崎・新潟・神戸が開港。自由貿易がはじまる(1859年~)。幕府と欧米諸国の仲介・通訳のため、日本を訪れる中国人(広東省や福建省出身)は大幅に増えた。

1871年~
中国人向けの料理店が増える
この年の「日清修好条規」を受け、来日する中国人の数は倍増。なかには中国人相手のレストランを出す者もいた。彼らの住まいは「外国人居留地」と呼ばれる港の近くの区画で、これらが後の横浜中華街や神戸南京町となる。1899年になると内地雑居が許され、中華街の以外の場所で店を開く者も出てきた。

1894年~
日清戦争以降、国内の華僑が激減し、日本人向けに商売がはじまる
日清戦争の影響を受けて、日本で暮らす中国人の数は大幅に減る。商売相手が中国人から日本人に変わっていったのもこの頃だ。

1910年
日本人向けの中華料理店が増える
1910年には、東京・浅草に日本初のラーメン屋と言われる「来々軒」、1923年には新宿「中村屋」が創業。日本風にアレンジされた中華料理が広まっていく。

1923年~
関東大震災により中華街が壊滅的な被害を受ける

発展を続けていた日本の中華街だったが、関東大震災で大打撃を受ける。レンガ造りの中華街の建物は崩れ、国に逃げる中国人も少なくなかった。

1937~1945年
第二次世界大戦で、街は焼け野原に
日中戦争と第二次世界大戦を受け、在日中国人だけでなく、在日中国大使や外交官なども本国に引き揚げはじめる。空襲で横浜や神戸の中華街は、焼け野原となった。

1945~48年ごろ
第二次世界大戦終結。食糧危機のなか、栄養のある食事を求め、中華街に人が集まる

終戦後の食料や物資が不足していた時代、中国人が暮らす中華街は、戦勝国民ということで、統制の対象となっていた食料が優先的に配給され、衣類やタバコ、薬なども手に入れやすかった。そのため、中華街は闇市として大いに賑わった。

1945年~
引き揚げた日本人が中国北部の料理を伝える

これまでの中華料理は、広東省や福建省など南部のものが主流であったが、満州から引き揚げた日本人たちが、北部の中華料理をもたらす。その中には、支那そば(ラーメン)や焼き餃子(中国では、水餃子の残りを焼いて食べていたが日本に渡ってからは、生の餃子を焼いて食べるようになった)などがあった。

1950年代
ラーメンや焼き餃子といった、安くて美味しい中華料理が人々に親しまれる

日本初の焼き餃子店「有楽(1948年)」、味の三平から発売された「味噌ラーメン(1954年)」や、日清の「チキンラーメン(1958年」など日本人がラーメンや餃子の販売を始める。戦後の非常時ということもあり、安くて美味しい料理として庶民に受け入れられる。

1950年代~
内戦・混乱が続く中国からハイクラスの料理人たちが来日する

第二次世界大戦後、内戦が続く中国から海外に活躍の場を求めた、「海派(ハイパー)」と呼ばれる料理人たちが日本に渡る。彼らは当時「田村町」と呼ばれていたエリア(港区西新橋近辺)を中心にオープンした最先端の高級中華料理店などで活躍した。代表的な店としては「四川飯店」「王府」「留園」など。この背景には、田村町が都心に近く、有力な所有者もおらず、近くにはGHQや当時のNHK、日比谷公会堂などがあったためである。

当時の欧米

1800年代初頭
イギリスにヨーロッパ最古の中華街が作られる
19世紀スエズ運河の開通後、ロンドンのイースト・エンド地区の船舶ドック近くに、東インド会社の広東人船員たちが移住し、ヨーロッパ初のチャイナタウンが形成された。

1849年~
ゴールドラッシュを機に中国人がアメリカに渡る
1848年、カリフォルニアで金が発見され、世界各地から一攫千金を夢見た人々がアメリカを目指した。この中には中国人(主に広東人)もいた。その後も奴隷解放に向かうアメリカでは、安い労働力の需要が高く、大陸横断鉄道建設(1863~1869年)でも「苦力(クーリー)」と呼ばれた中国人たちが活躍した。

1882年
「中国人移民排斥法」が議決され中国人が激減
中国人の活躍は、経済不況で職に就けないアメリカ人に不安を与え、1870年代から中国人排斥運動が激しさを増す。1882年には、中国からの移民を禁止する「中国人移民排斥法」が議会で可決された。

1900~1950年代ごろ
アメリカ人向けの中華料理「チャプスイ」が登場
安価で栄養が取りやすい中華料理は、同じく肉体労働者であった黒人にも徐々に浸透。そんな背景の中、アメリカ人向けの甘い味付けをほどこした「チャプスイ」(白米や麺に炒めた豚肉や玉ねぎなどをのせたもの)が誕生し、人気を博した。

1943年
「中国人移民排斥法」が撤廃される

アメリカと中国が同盟国になり、「中国人移民排斥法」が撤廃。

1945年~
アメリカに台湾移民が増え、餃子がもたらされる

終戦後、中国では内戦が激しさを増し、共産党に追い詰められた国民党の人々が、中国から台湾に渡る。そして国民党の中国人たちは共産党によるさらなる弾圧を恐れて台湾からアメリカに渡り、台湾移民となった。そうして渡米した彼らによって、餃子などのこれまでになかった中華料理がアメリカにもたらされた。

1950年代
イギリスのソーホーにチャイナタウンが形成

極東から帰国したイギリス人兵士を中心に、中華料理のニーズが高まり、それを受けてソーホーにチャイニーズレストランやスーパーマーケットができる。

福建料理がベースになっている長崎の「ちゃんぽん」。明治中期、長崎市の中華料理「四海樓」の初代店主・陳平順が、当時日本を訪れていた大勢の中国人留学生のために、安くて栄養価の高いものをと考案し生まれた料理だ。
アメリカ・カリフォルニア州、コロマにあるゴールドディスカバリー博物館の展示。中国語で「金山」とは、サンフランシスコを指す言葉である。1852年までに2万人以上の中国人が海を渡り、アメリカに向かったと言われている。

19世紀、内戦などを背景に多くの中国人が海を渡り、日本や欧米にたどり着く。彼らがもたらした中国料理は、はじめ中国人向けのものだったが、次第に現地人の好まれる味に変容。1950年代後半の日本では、庶民の味、高級料理の両面から人々に親しまれるようになる。

またアメリカでは、1849年以降、ゴールドラッシュや鉄道建設などで大量の労働力が必要となり、積極的に中国人移民を受け入れた。その結果サンフランシスコに最初のチャイナタウンが誕生。しかし、70年代になると白人たちの反発が高まり、1882年に「中国人移民排斥法」が議決され、中国人は激減。チャイナタウンに残った人々は、生計を立てるためにアメリカ人の好みに合わせ、濃い目の味付けをほどこした「チャプスイ」などの料理を提供するようになる。イギリスでは、19世紀初頭に東インド会社の広東人船員がロンドンのイーストエンド地区の港近くに移住し、初期のチャイナタウンができる。第二次世界大戦後は、難民の受け入れや法改正により、イギリス、アメリカとも移民が増え、大きなチャイナタウンが形成された。

text 立岡美佐子(エフェクト)  協力 柴田泉、山下清海(立正大学地球環境科学部地理学科教授)

本記事は雑誌料理王国2019年12月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2019年12月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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