アートに触れる 新・芸術家たちの食卓vol.10 鮮やかな色彩と光に満ちた造形美を探求したモダン・アートの巨匠アンリ・マティス 23年6月号


芸術家と食をつなぐ人気企画の復活版「新・芸術家たちの食卓」。
料理を極めようと日々進化する料理人にとって、アートに触れることで得られる知識は深く、広く、楽しいものです。芸術家の人生や作品から受けるインスピレーションは、きっと料理の幅を広げてくれることでしょう。その気づきのヒントを、キュレーターの林綾野さんに教えていただきます。第10回目のテーマは、20世紀のフランスを代表する画家、アンリ・マティス。色彩や光の探求に生涯を捧げ、今も色褪せない作品を残したその秘訣は、彼の〝朝食〞にあったのかもしれません。

20世紀のフランスを代表する画家のひとり、アンリ・マティスは、1869年、フランス、ル・カトー=カンブレジで生まれた。彼は絵画における色彩表現の可能性を広げた画家として、後世の芸術家たちに多大な影響を与えた。その絵は祖国フランス、そしてアメリカやロシアなど世界の名だたる美術館が所蔵し、多くの人に愛され、親しまれている。

アンリ・マティス(1922年、マン・レイ撮影)© Man Ray Trust / Adagp, Paris Photo ©Centre Pompidou, MNAMCCI/Dist.RMN-GP

この春、世界最大規模のマティス・コレクションを誇るパリのポンピドゥー・センターの協力の元、日本で約20年ぶりとなる大回顧展が開かれる。マティスの魅力を改めて感じる絶好の機会だ。

商人の家に生まれたマティスは高校を卒業すると、両親の希望に従いパリに出て法律を学ぶ。その後、法律事務所に勤めるが、体調を崩して1年間病床に就くことになる。このことがマティスのその後の人生を大きく変えることになった。療養中、病院生活の慰めに、母が絵を描く道具一式を贈ってくれたのだ。マティスはそれを使って初めて油絵を描いた。思わぬ手応えを感じた彼は、20歳にして本格的に絵を学ぶことを決心する。セザンヌに憧れながら自分らしいスタイルを探求するが、絵描きとして暮らしを立てるまでになかなか至らず、苦労を重ねた。妻が生活を支える中、マティスは辛抱強く絵を描いた。

アンリ・マティス《夢》 1935年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle
アンリ・マティス《アルジェリアの女性》 1909年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle

1905年、そんなマティスに転機が訪れる。画家たちにとって登竜門とも言えるサロン・ドートンヌに妻をモデルに描いた「帽子の女」を出品。赤や緑、紫など鮮やかな色を大胆に用いたこの作品が、高い評価を受けたのだ。この時からマティスと仲間たちは「野獣派」と呼ばれ、前衛画家としての存在感を示していくことになる。以後、マティスは独自の絵画世界を展開していく。「アルジェリアの女性」(1907年)に見られる大胆な筆使いで描くエキゾチックな人物画、スナップショットのような構図が目を引く「夢」(1936年)など、今見てもモダンで魅力的、そして生気あふれる絵を多数描き出していくのだった。

ベッドの上でラジオを聴きながらカフェ・オ・レとトーストの朝食を

アンリ・マティス《 赤の大きな室内》 1948年 油彩/カンヴァス ポンピドゥー・センター/国立近代美術館 Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle

《赤い大きな室内》は1946年から1948年にかけて描かれた作品である。そのタイトルにあるように、画面全体を赤が大胆に覆う。ダイニングテーブル、そしてサイドテーブルの上には花瓶に生けられた赤や青、黄色の花、緑色の鉢植えも見える。そして二つのレモン。お皿らしきものも描かれている。画面の奥には「画中画」として2つの絵、そして手前の床には動物の毛皮を敷物にしたものが2枚描かれている。人物の姿もない静かな室内画だ。部屋の奥行きや三次元的な感覚は排除され、画面全体の印象はどこまでも平面的で装飾的だ。ビビッドな色彩が放つ生命感。色と色が奏でるリズミカルなトーン。高さ146cmに及ぶこのカンバスを前にすると、不思議と気持ちがいきいきと息づいてくる。瑞々しい色彩の力だろうか。

赤や緑、黄色にオレンジ。果物は絵の中でアクセントの役割を果たす。ホテルの部屋にもたくさんの果物があったに違いない。

北フランスに生まれ、パリで絵を学んだマティスは南フランスで晩年を過ごした。そして1938年、69歳の時よりニースのホテル・レジナに暮らし始める。色彩を現実の再現の為に用いるのではなく、絵画全
体の印象を作り出す要素として見出したマティス。革命的な仕事は、強い探究心と意思の現れでもあるが、彼自身は穏やかな人柄だったという。ホテル・レジナでの暮らしも絵を描くことを中心とした規則正しいものだったようだ。朝8時に起きて顔を洗い、髭を剃る。朝食はラジオでニュースを聞きながら、ベッドの上でカフェ・オ・レとトーストを。食後に手を洗って早速絵を描き始める。朝食は仕事の序章としてできるだけシンプルに、そして安堵できるものがいい、そんな思いがあったのだろう。

70歳を超えた頃に手術を受け、限られた時間しか絵を描けなくなっても、マティスの制作に対する熱意が衰えることはなかった。南フランス、ヴァンスのロザリオ礼拝堂の壁画、1954年に84歳で亡くなる直前まで手がけた切り絵の大作など色彩への探求を胸に、常に新しいものに挑戦し続けた。マティスが込めた情熱のままにその作品は明るく力強く、今も輝き続けている。

アンリ・マティスの朝食

マティスは毎朝、カフェ・オ・レとトーストの朝食だったとか。トーストをカフェ・オ・レに浸して食べていたかもしれない。

● 材料
バゲット コーヒー ミルク

● 作り方

  1. コーヒーを淹れ、ミルクを温め、それぞれをポットなどに入れる。
  2. バゲットを適当な大きさに切って焼き、お皿に盛る。
  3. 全てをトレイに乗せてベッドの上へ運ぶ。

マティス展 Henri Matisse: The Path to Color
会場:東京都美術館
会期:2023年8月20日(日)まで
住所:東京都台東区上野公園8-36
TEL:050-5541-8600(ハローダイヤル、9:00~20:00)
休み:月曜日、7月18日(火)※7月17日(月・祝)、8月14日(月)は開室
時間:9:30~17:30(金曜日は20:00まで、入室は閉室の30分前まで)
※日時指定予約制。料金など詳しい情報は展示会公式サイトをチェック

林 綾野 はやしあやの

キュレーター、アートライター。美術館での展覧会企画、絵画鑑賞のワークショップや講演会、美術書の企画や執筆を手がける。画家の創作への想い、ライフスタイルや食の趣向などを研究、紹介し、芸術作品との新たな出会いを提案する。絵に描かれた「食」のレシピ制作や画家の好物料理の再現など、アートを多角的に紹介する試みを行う。近年企画した展覧会は「熊谷守一 いのちを描く」「安野光雅 風景と絵本」「かこさとしの世界」「堀内誠一 絵の世界」など。著書に『画家の食卓』『ロートレックの食卓』(各講談社) 『浮世絵に見る江戸の食卓』(美術出版社)などがある。企画した展覧会「谷川俊太郎 絵本★百貨展」がPLAY!MUSEUM(立川)で4/12~7/9開催中。

text & cooking: Ayano Hayashi  photo: Akio Takeuchi  edit: Mika Kitamura

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