過去の事象を調べるときにネットワークワークで検索出来ないことがあります。ネットワーク発達以前の資料は雑誌などで探すのですが、詳細なことは中々調べ難いいです。
この数年、1980年に設立されたフランス料理のシェフたちの組織「クラブ・デ・トラント(Club des Trente」を調べようとすると自身のブログ「日々是ハルコ哉。」ばかりヒットするので他に興味を持っている方はあまりいないのかと思う次第です。
しかし、この「クラブ・デ・トラント」は日本の食(グルメ)文化に果たした意味は大きいと考えています。レシピの考古学の一端として「クラブ・デ・トラント」が果たした意義を書いてみます。
話は日本が戦争で負けた戦後の時代を簡単に記述します。
東京のホテルや会館系で戦禍を逃れた施設は、進駐軍によって接収されていましたが、丸の内ホテルや帝国ホテルなどが接収解除になるのは1952年以降のことです。
一方、街場のレストランは、イタリアンの方が早く広まっていて、本牧に「イタリアンガーデン」(1950年)、フレンチでは同年銀座「エスコフィエ」が開店しましたが、これは、進駐軍相手のレストランとして成り立っていました。
1953年は「グリル満天星」、1955年イタリアン「シシリアン」、フレンチでは日比谷に「南部亭」、翌年は「ニコラス」が次々と開店しました。
1957年には帝国ホテルでバイキングが始まり、1958年には六本木の「アントニオ」が開店。アントニオは戦時中イタリアから日本へ向った軍艦が、イタリアが連合軍に降伏したので、神戸で抑留されたアントニオが戦後マッカーサー元帥の料理人になり、その後レストランを作ったのは有名な話ですね。そして、60年安保の時に開店したのが、その後の六本木カルチャーの発信地になった「キャンティ」がオープン。
東京のレストランの発達には、1964年の「東京オリンピック」と、1970年の大阪での万博の成功がひとつのキーワードになっているのは間違いがないだろう。旅行の自由化と海外からの日本へくる客の需要の増加で、1970年代は帝国ホテルが「フォンテンブロー」、ホテルオークラが「ラ・ベル・エポック」を開業し、いよいよ日本のフランス料理界も形成されてきました。
そして、1960年代からホテルや会館と街場の有名レストランの料理人たちが海外に修行に行って順次帰国して、各地のホテルなどで活躍をはじめるのです。