師匠と弟子の物語 野﨑 洋光 24年6月号


ごくあたり前のことを普通に。
それが周りから好かれる第一歩

日本料理の名店として知られる東京・南麻布「分とく山」の総料理長を長きにわたり務め、昨年末に勇退した野﨑洋光氏。グループ店も含め、数多くの弟子たちを育て、輩出してきた野﨑氏は、いかに人を成長に導きながら一流店の名にふさわしい料理ともてなしを実現してきたのか。自身の修業時代の体験談をまじえて語っていただいた。

私は二十歳で板前を始め、27 歳で「とく山」の料理長になり、36歳で「分とく山」の総料理長になりました。世間的に見れば、スピード出世と思われるかも知れませんが、決して料理の腕がいいというわけではなかった。ただ言えることは、修業時代から今に至るまで遅刻せず、自分都合で店を休まず、朝から晩まで仕事をしてきました。今の若い人にとってみたら、スキがないぶん僕の下で働くのは厳しさを感じるかもしれません。これは自身の修業時代の経験から学んだことで、弟子を育てるにはまず、自分の後ろ姿を見せて示すことが肝心だと考えた結果なのです。

僕らの若い頃は今の時代だと受け入れ難いような理不尽なことをする先輩もいました。生意気でしたが「こんな人の下にはつきたくない」といわば反面教師のような存在に思えたこともあった。だからこそ、人一倍仕事をして先輩に何も言わせないよう努力しました。

しかも、今より労働時間が途方もなく長くてキツかった。仲間はみんな逃げるように辞めていきましたね。私も半年で辞めるつもりでしたが結局7年くらい続いた。なぜなら、たとえ早めに帰宅できたからといって、家だと疲れて勉強なんてしないでしょ? だったら店にいる時間を無駄にせず、一つでも仕事を覚えたほうが自分のためになる。そこで僕が実行したのが仕事で覚えたことを毎日3つずつ、ノートに書き記すこと。毎日書けば1年で1000個以上になります。しかも人よりまじめに働けば、仕事を任せてもらえるようになる。お金を使う時間もないから少しずつだってお金が溜まる。すべてプラスに考えることができる術を身につけたのも、この頃の修業経験があったからこそだと思っています。

駆け出しの頃は、つらいことがあると悪い状況が永遠に続くと思ってしまう。だけど急に上の先輩が辞めてポジションがあくことだってある。そうなるとチャンスですよね?風向きって半年や一年でガラッと変わるもの。だから決して諦めず、その日に備えて日々努力をして仕事を身につけてほしい。そうす
ればいつかきっと、自分にいい風が吹いてきますから。

「金儲け」より「人儲け」を考え、お客さんに愛される人になろう

僕が今まで料理人を続けてきて良かったと思うのが「金儲け」ではなく「人儲け」できたことなんです。去年70歳になって店を弟子に任せて現場を離れました。しかし有り難いことに40年来通ってくださっているお客様からお声がかかって、たまに店に立たせてもらっています。そのほか全国のホテルやレストランのイベントに呼んでいただいたり、メニュー開発の仕事にも携わったり……これらはすべて、人に恵まれた結果なんですね。

よく昔は「俺は職人だから」と格好つけている人もいました。でも客商売は結局、料理人である前に、常識のある普通の人間であることが一番大事なんです。お客さんだって同じ人間ですから無愛想だったり、いい加減だったらすぐにバレます。だからお弟子さんたちには「ごくあたり前のことを普通にやりなさい」とずっと教えてきました。笑顔でいたらお客さんも笑顔になれる。お茶を飲んでいる時の湯飲みの傾け具合を見て、サッとお茶を注ぎ足すなど、相手の望みに先回りできることが大事。技術の前に人として気に入ってもらい、お客さんを集めて「人儲け」できれば、おのずと店は繁盛します。

店を持ちたければ資金がなくたって店はできる。お客さんは経営者でビジネスをやっている人が多いから、引き抜きに来ることだってある。だけどきな臭い人間にはお金は出しません。「この子と組んでみたい」と思わせる、人間性を磨かないと駄目。

「鮑の磯焼き」は分とく山の開業以来の名物。鮑を柔らかく蒸し、一緒に蒸した肝は裏漉しののち卵黄とだしでのばしてソースに。殻に身を盛り、海藻とともに蒸して仕上げる。たっぷりのソースを絡めて食べるようすすめる。

すべて自分で決めて、すべて責任を負うから頑張れる

「分とく山」は多い時で7店舗ありました。開店して半年は私も関わりますが、「俺に言われたら面白くないだろう? 責任を持つから頑張れるんだよ」と伝えて、あとは弟子にまかせてきました。そうしたら自分で考えて、ちゃんと店を切り盛りできるようになるものです。

我々はカウンター仕事で、料理を作るだけではなく接客も兼ねていますから、総合的に能力のある人でなければ料理長は務まりません。「トップになりたい」と思っても、そう甘くはない。そして、甘くないのは自分の店を持ったらなおのこと。すべて自分で決めて、その責任をすべて負えなくてはならない。でも、だからこそやりがいがあるのですけれどもね。

今回登場してくれた3人のお弟子さんたちも店を持って、頑張ってくれています。「麻布和敬」の竹村さんは、もともと愛媛のホテルで8年ほど経験後、「分とく山」に来ました。最初からうちで育った子とはひと味違ったビジネスセンスを持っていましたね。10年ほど前に地元、山形で「馬場乃町 はやし」を開いた大竹さんは飯倉片町店の料理長でしたが、彼は性格がいいのでお客さんに愛された。地元でどんどん自分を売っていってほしい。そして、福岡「おでん にいの」の新野さんは高校時代のアルバイトから店に入ったのですが、学生とは思えないほど機転が利いていた。勉強熱心なことにも驚かされました。

お弟子さんたちは同じ釜の飯を食ってついてきてくれた仲間ですから、彼らに限らず皆かわいいですよ。仕事で地方に行ったときに店に立ち寄ったら「急に来ないでください」っておこられますけどね(笑)。今は立場が逆転して仕事をもらう立場になって、それもうれしいことです。

分とく山と野﨑洋光さん

分とく山の母体である「とく山」は1978年、西麻布交差点のほど近くに創業したふぐ料理店。野﨑氏はこの店に1980年、27歳の時に料理長として迎えられた。じきに野﨑氏の自由な料理が評判を呼んで人気店に。1989年には同じ西麻布にオープンした姉妹店である割烹「分とく山」の料理長に就任する。その後分とく山は最大7店を展開し、野﨑氏は総料理長として全店舗を指揮。多くの人材を育てつつ、夜の営業時には必ず分とく山のカウンターに自ら立つ日々を続けた。

野﨑氏は他ジャンルのシェフたちとの交流も深く、そこから得た知見を料理に取り入れるなど柔軟な感覚の持ち主としても知られる。論理的かつ平易に日本料理を説明する料理人としてテレビや雑誌などのメディアでも人気を呼び、著書は100冊超。第一線を引退した現在も、全国を講習などで飛び回る。

「カウンターは料理人の舞台」と野﨑氏。お客との交流の中で料理も人間も磨かれる。野﨑氏の圧倒的に細やかな接客から弟子は多くを学んだ。

野﨑 洋光 のざき ひろみつ
1953年福島県生まれ。東京グランドホテル、八芳園などで修業。1980年に東京・西麻布の「とく山」料理長に就任。1989年に南麻布「分とく山」を開店し、グループ7店舗の総料理長となる。2023年12月に総料理長を退任。現在は書籍、ウエブサイト、テレビのほか、メニュー開発や全国各地の料理イベントなど活躍の場を広げる。

分とく山
東京都港区南麻布5-1-5
TEL 03-5789-3838
17:00~21:00 LO 日曜定休

師匠と弟子の物語 分とく山出身


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