名店にはさまざまな特徴があるが、「優秀な弟子を輩出している」もその一つ。この連載では「ある店」から卒業後に活躍しているシェフたちにインタビューする。今回から3回にわたり、「分とく山」出身で今は自店構える3名の料理人が登場。初回は東京・西麻布「麻布 和敬」の主人、竹村竜二さんに話を聞いた。
〜分とく山(わけとくやま)について〜
野﨑洋光氏が総料理長を務める日本料理店。1989年西麻布にてオープンし、以来、野﨑氏は同店のカウンターに立ち続ける。店はその後広尾に移転。野﨑氏は日本料理の伝統を親しみやすく伝える活動に尽力し、メディアでも幅広く活躍。誠実で温厚な人柄でも知られ、長年にわたり料理界の第一線を走り続ける。
——竹村さんはどのような経緯で分とく山で働くようになったのでしょう。
自分は愛媛の出身で、調理師学校卒業後は地元の道後温泉のホテルで働いていました。そんな中、17、18年前のことでしょうか。この地に分とく山の支店ができるという話があがり、ホテルから何人かの料理人がその店で働く見通しとなったのです。結局支店の計画は見送られたものの、せっかくのご縁だということで、勤務予定だったスタッフを東京の分とく山に研修に行かせよう、という流れに。僕もその中の一人として派遣されたのです。
研修は10日間ほどでしたが、ずっとホテルの厨房で働いてきた身にとって、お客さまの反応をじかに見ることができるカウンターの仕事はまさに刺激的。それで、「この店で働く!」と心に決めて道後に帰りました。
もちろん、だからと言ってすぐにホテルを辞めることはできません。時間をかけて当時の親方をはじめとする周りの人たちを説得し、実際に分とく山で働くことができるようになったのは約1年後。この時僕は27歳で、以降、4年間お世話になりました。
——分とく山に入って、特に印象的だったことは何ですか。
道後のホテルでは8年間働き、一通りのことはできるようになっていたので、実は仕事にはある程度自信を持って移ったのです。でも実際には、すぐに自分が「井の中の蛙」だったことを思い知らされました。
とくに、研修の時もそうでしたが、カウンターの仕事に衝撃を受けました。たとえばお客さまに適切なタイミングでお茶を淹れてさしあげる、中座なさったら膝掛けをさりげなくたたみなおす、戻られたらおしぼりをお出しする……。どれもカウンターでは当然の動きですが、僕はそんなことも知らなかったのです。
また、板長(総料理長の野﨑洋光氏)は常連のお客さまと新しいお客さまとで、いい意味で対応を変える。お客さまの様子を見ながら料理の量もお出しするスピードも変える。誰もが食事の時間を楽しく過ごせるよう調整する、その巧みさにも驚きました。
こうして、厨房の中だけが料理人の仕事ではないということを教えてくれたのです。料理だけで満足していては、「調理師」止まり。お客さまのことをしっかりと思いながらおもてなしをするのが「料理人」だと私は理解しました。そして分とく山で経験を積むことで自分は「料理人」になる! と改めて決意しました。
——分とく山では、どのようなポジションで働きましたか。
実は入ってから3ヶ月で、板長の横でカウンターに立つようになったのです。入店時に「3年後には板長の横に立ち、カウンターでカッコよく働きたい!」と目標を立てていたので(笑)、この抜擢には驚きましたが、嬉しかったですね。
でものちのち、板長がポロッと本音をこぼしたことがありました。「本当のこと言うと、竹村くんは、入ってきてからの3ヶ月間、『彼はダメなんじゃないか』って思って見ていたんだよ」とのこと。
たしかに、僕は不器用なところがあり、新しい環境では最初のうちは力が発揮できないのです。でも、そのぶん実直に努力することにしています。今思えば、その不器用に頑張るところを、板長に気に入ってもらえたのかもしれません。
板長もけっして器用で派手なタイプではありません。なので、カウンターに一緒に立っても、板長が作る空気の邪魔をしない。そういうところはあったように思います。
——その後は、どのようなポジションを?
当時の分とく山は1階と2階それぞれにカウンターがあり、板長がいるのは1階。僕も最初は1階でしたが、2年目から2階のカウンターをまかされるようになりました。
そして3年目は、煮方。煮方は和食では親方の次に重要なポジション。ぜひとも「分とく山の煮方」は経験したいとあこがれていたので、この担当に就けたことも嬉しかったです。そして最後の4年目は再び板長の横で、1階のカウンターに立たせていただきました。
結果的に、4年という長くはない期間の中で、大切なことを不足なく学ぶことができました。非常にラッキーだったと思います。
——野﨑さんの教えで、特に印象的なものは何でしょう。
僕が入った頃、板長が言っていた言葉でよく覚えているのが、「やったことがあるのと、やれるということは違う」です。
たとえば、サンマを刺身にする時、サンマのどういう魅力を意識して包丁を引いているか。つまり、自分の作業の意味など考えず、ただ切るのが「やったことがある」。一方、何のためにやっているか理解しているのが「やれる」。そのように、自分なりに理解しました。
一つ、分とく山に入って間もない頃、サンマの料理でハッとした経験があります。それは、サンマを細引きにして、薬味と和えて、こんもりと盛り付けてお出しする料理を作った時。板長は、上の2枚の切り身をきれいに見せるように盛るのです。それまでの僕だったら、ただボンと盛り付けて終わり。自分がやってきた枠の外に、一流の世界が広がっていると気づいたのです。
僕も刺身の経験は、ホテルの時にかなり重ねていたんですよ。1日に600人分の刺身を引いていた時期もありましたから(笑)。朝食に150人分、結婚式で150人分、宴会で150人分、夕食で150人分という具合です。でもそれは、どちらかというと作業的になってしまっていたかもしれません。
とはいえ、圧倒的に数をこなしたことは後々に非常に生きてきたと思います。それは筋トレみたいなもの。とにかく毎日100回ひたすら鍛えるのと、「ここに筋肉をつけよう」と意識しながらやるのでは成果は全く違う。でも一応100回やってきた経験があれば、効果のあるトレーニングに移行しやすいですよね。
分とく山ではそれができたかな、と思っています——ホテルでの8年間でがむしゃらに習得してきたことを全部ふり返り、意味付けしていくような4年間でした。
——竹村さんは分とく山を退社した後、地元愛媛でお店を6年間なさってから東京に移転し、今年の11月で丸4年間になります。分とく山で学んだことを、今も感じることはありますか。
僕も分とく山を卒業してからずいぶん経つので、料理自体は自分らしい方向に変わったと思いますが、料理や仕事に向き合う姿勢に関しては板長に教わったことが生きています。
分とく山で働いていた時、板長から頻繁に「それはなんで? なぜそうしたの?」と、鬼のような質問攻めを受けていました(笑)。誰に対してもそうなのですが、当時はそれがかなりのプレッシャーだったのです。
ただしこの経験があるから、今も自分が作った料理に対して、作り方の工程一つずつに理由はあるか? めざす完成形に向けてもっと適切な手法はないか? と自問自答することが習慣づいています。そうして、料理のマイナーチェンジをくり返しています。
——今、竹村さんにとって、野﨑さんはどのような存在でしょうか。
お互いの店が徒歩10数分の場所にあり、今も比較的頻繁に交流をしているからでしょうか。師匠として尊敬すると同時に、どこか身近な存在でもあると感じています。時折、朝の散歩に誘われて、一緒に歩くこともあるんですよ。
そうした時には、たとえば僕が雑誌やテレビなどのメディアに出ている様子をからかわれたり(笑)、「お付き合いはていねいにした方がいいよ」「横柄になっていくと、こんなことになるよ」といったアドバイスをくださいます。
板長はあれだけ世間に知られ、メディアでも活躍し、多くの人に慕われる存在になってもスタンスが変わりません。高みに登ってもまったく偉そうではない。そんな方が言って下さる言葉には説得力があります。
たまに「それはわかってます!」ということを言われたりもしますけど(笑)、僕ら料理人は、一度独立して店を構えると、まず、誰かに注意されることがなくなる。なので言ってくれる人はとても貴重なのです。それに、わかっていることでも声にして言ってもらえると、心が引き締まります。
板長は、今も僕の進む道の軌道修正をしてくださる人。とてもありがたい存在で、いつも感謝しています。
竹村竜二 たけむらりゅうじ
1978年愛媛県生まれ。調理師学校卒業後、県内のホテルで8年間経験を重ねてから「分とく山」へ。4年間働いたのち帰郷し、地元の大学で2年間教鞭を執る。2012年に松山で「和敬」を独立開業。2018年5月に『ミシュランガイド広島・愛媛 2018 特別版』にて、愛媛の日本料理店として唯一二ツ星を獲得。同年東京・麻布に移転、11月に「麻布 和敬」をオープンする。
麻布 和敬
東京都港区西麻布2-7-9
TEL 03-3486-0149
https://wakei.tokyo
text:柴田 泉
神奈川県出身。食の専門出版社「柴田書店」にて、プロの料理人向けの専門誌『月刊専門料理』編集長を務める。独立後は食やレストランのジャンルを中心とするフリーライター・編集者として活動。