名店にはさまざまな特徴があるが、「優秀な弟子を輩出している」もその一つ。この連載では「ある店」から卒業後に活躍しているシェフたちに毎回インタビューする。今回は「アクアパッツァ」「マンジャペッシェ」出身の4名のシェフが登場するシリーズの最終回。リストランテ「カ・デル ヴィアーレ」を中心に、個性の異なる4店を京都・二条近辺で展開する渡辺武将さんに話を伺った。
〜アクアパッツァ・マンジャペッシェについて〜
「アクアパッツァ」は、日髙良実氏がオーナーシェフを務める、現在東京・青山にあるイタリア料理店。1990年に西麻布で誕生。日髙氏が南イタリアで心酔した素朴な魚料理「アクアパッツァ」を店名に掲げ、ごく上質な素材をシンプルに仕立てた品々で時代を築く。1996年にはそのコンセプトをさらに押し進めた「マンジャペッシェ」(千駄ヶ谷)をオープン。今に至るイタリア料理の新しい流れを作った。
——渡辺さんはどのようにしてアクアパッツァに入ったのでしょう?
前々から日髙シェフのお名前は知っていたのですが、実際に働きたいと思ったのは『素材を生かしたイタリア料理』(日髙氏の著書。1995年刊)を見て衝撃を受けたことがきっかけです。
本屋でこの本のページをめくっていたら、アクアパッツァの料理の写真がキラキラ輝きながら目に飛び込んできたんです。フライパンの中で、スプーンで魚に煮汁を回しかけながら調理しているカットにも目が釘付けに。「自分もこれがやりたい!」と思い、当時は京都で働いていましたが、「絶対にアクアパッツァに入る!」という意気込みですぐ食事に行きました。
食事はできたものの、あいにくこの時は厨房のスタッフがいっぱいで就職は断られてしまい、ショックを受けつつ京都に帰りました。でもしばらくしてから「3号店(マンジャペッシェ)を開くので、まだ働く気があれば来ないか」との連絡が。「行きます!」と即答し、運よくアクアパッツァグループの一員になることができました。
グループの中では、アクアパッツァ青山店での研修を経てマンジャペッシェに入り、その後西麻布のアクアパッツァ本店で働きました。23歳の後半から25歳までの約2年間お世話になりました。
——その2年間でどのような経験をしましたか?
まず驚いたのが、マンジャペッシェでの前菜です。
なにしろランチの前菜が、蒸し野菜だけだったのです。味付けは塩とオリーブオイルのみ。厨房のみんなで「これで出していいの?」なんて言っていたくらいです。当時誰もそんなことやっていませんでしたから。でも、日髙シェフはなさっていた。
のちのち僕もイタリアに通うようになって、現地では蒸しただけ、グリルしただけの野菜の前菜があることを知りました。それで、「あ、日髙シェフはこれをイメージしていたのかな」とわかったのですが、マンジャペッシェの頃の自分には画期的すぎたんですね。とにかく衝撃を受けました。
その後移った西麻布のアクアパッツァ本店では、スーシェフに指名されました。憧れていた厨房でのスーシェフですから、毎日仕事するのが楽しくてしょうがない。始発から終電まで、無我夢中です。
でも、スーシェフといっても安泰ではありません。いつ誰に抜かされるかわからない。なので仲間意識はありつつも、周りと競うように仕事をしていました。みんな同じ気持ちだったでしょうし、そうするうちに自然と腕も上がっていったように思います。
この時の仲間たちとは、今でも会えば昔に戻ったような感覚で話せます。仲間は、修業時代に得た大切な財産です。
——1999年に独立開業なさいましたが、そこから今に至るまでの道のり全体で、どのような点で日髙シェフから影響を受けていると思いますか。
料理に関しては、野菜の魅力に気づかせてくださったことが大きいです。店作りに関しては、個性の違う複数の店を展開するようになったのは日髙シェフの影響です。
独立した時は、店をいくつも持つことは全く考えていませんでした。むしろ、一つの店で1から10までを自分でやりたがるタイプ。そのため最初の店「イル ヴィアーレ」も、一人で働くことを前提に、オープンキッチンとカウンターのみの小さな店にしました。
でも開業して少しした頃から、ありがたいことに、「ここで働きたい」と言ってくれる若い子がたくさん来てくれるようになったんです。とはいえ本当に小さい店で、何人も働くスペースがない。だから断り続けていたのですが、だんだん「これでいいのか?」と悩むようになりました。
そんな時、以前、日髙シェフが「いろいろあった方が楽しいでしょ」とおっしゃっていたのをフッと思い出したのです。
日髙シェフは僕が働いていた当時、アクアパッツァの本店、青山店、マンジャペッシェという個性の異なる3店舗を展開なさっていました。それで、アクアパッツァで働いていた時、シェフに「どうしていくつも違うお店を開くんですか?」と聞いたことがあったんです。そうしたら、「だって、いろいろなスタイルのお店があった方が楽しいでしょ」とのお返事が。ただし、その時の僕にはあまりピンときませんでした。なにしろ僕は「一人で全部やるのがいい」と思っていたタイプなので。
また別の話になるのですが、ある時、同期の一人がポロッと「どうしてこっちのテーブルとあっちのテーブルで魚の種類が違うんですか?」とシェフに聞いたことがありました。というのも、当時僕たちは毎日たくさんの種類の魚でアクアパッツァを作っていて、テーブルごとに別の魚種のアクアパッツァが運ばれていたからです。
日髙シェフはこの時も、「だって、いろいろな種類の魚があった方が楽しいでしょ」とおっしゃいました。
そんなやりとりがあったことを、しばらく忘れていました。でも、働きたいと言ってきてくれる子たちに応えられず悩んでいた時に、突然思い出したんです。それで、「あ! 僕もいろいろな店をやればいいんだ!」と、バッとひらめいた。人が集まるのなら、一人ではできないことをやればいい。そして、いろいろな個性がある方が楽しい。そのように、考え方が変わったんですね。何年も前のシェフの言葉が時間差で効いて、僕を前進させてくれました。
今、イル ヴィアーレのグループではリストランテ、カジュアルなタヴェルナ、ピッツァ専門店、パニーノ専門店を展開しています。このスタイルは日髙シェフに背中を押されてできたものだと思っています。
—— 一人で1店をやるスタイルから、多くのスタッフと複数の店を作る方向へ変わったのですね。
そうですね。あとスタッフを迎える以上は、多くの仲間ができる環境を作りたいという思いもありました。
僕がアクアパッツァグループにいた時、仲間がいたから働くのが本当に楽しかったし、切磋琢磨できた。僕は日髙シェフにそういう環境をいただいたので、自分がシェフの立場である今、同じようにありたいと思っているんです。
それに僕は今も、修業時代の仲間たちとは互いに刺激しあったり、困った時には助けあったりしています。助けというのはお金を貸す借りるとかではなく、勇気をもらえるということ。コロナの時も、みんながテイクアウトや通販で頑張っているのを見て励まされ、キツい時期をのりきることができました。
なので、今のスタッフたちがいつか独立して店を持った時、そうした昔からの仲間がいた方が絶対にいいのです。
——独立して10年20年後も刺激し合える、かけがえのない存在ですね。
そうですね。刺激と言えば、日髙シェフからの刺激も相当大きいです。一番かもしれません(笑)。今、大人気ユーチューバーというのもシェフのすごいところ。常に挑戦し、前進するパワーには驚かされます。
実は来年、イル ヴィアーレでは京都の大丸百貨店内にリゾット専門店をオープンする予定ですが、この決断ができたのも日髙シェフのおかげです。話をいただいた時は「街場の店しか経験のない自分には難しいのでは?」と躊躇しました。でもちょうどその頃、シェフがYouTubeでいろいろと発信されていたことにものすごく刺激を受け、自分でできる新しいチャレンジがあるならやるべきだ、と思えたのです。
僕は今51歳でシェフより13歳下なのですが、全然負けていられません(笑)。日髙シェフは僕にとっていつでもスーパーグランシェフですが、そのグランシェフがさらに前進していらっしゃる。そんな姿に刺激をいただきながら、自分もまた進み続けたいと思っています。
渡辺武将 わたなべたけまさ
1971年、京都生まれ。「カーサビアンカ」(京都)を経てアクアパッツァグループに入り、2年間働く。京都に戻り、1999年に「イル ヴィアーレ」をオープン。2007年に「タヴェルナ イル ヴィアーレ」、08年にピッツェリア「アル カミーノ」をオープンののち、09年に本店を移転、店名を「カ・デル ヴィアーレ」に変更。22年にパニーノ専門店「パニノテカ」を併設。
カ・デル ヴィアーレ
京都府京都市中京区西ノ京千本三条西入ル北側
TEL 075-812-2366
http://www.watanabechef.com
text:柴田 泉
神奈川県出身。食の専門出版社「柴田書店」にて、プロの料理人向けの専門誌『月刊専門料理』編集長を務める。独立後は食やレストランのジャンルを中心とするフリーライター・編集者として活動。