名店にはさまざまな特徴があるが、「優秀な弟子を輩出している」もその一つ。この連載では「ある店」から卒業後に活躍しているシェフたちに毎回インタビューする。今回は「アクアパッツァ」「マンジャペッシェ」出身の4名のシェフが登場するシリーズの2回目。東京・糀谷「リストランテ ダ トシユキ」オーナーシェフ、小川利幸さんに話を伺った。
〜アクアパッツァ・マンジャペッシェについて〜
「アクアパッツァ」は、日髙良実氏がオーナーシェフを務める、現在東京・青山にあるイタリア料理店。1990年に西麻布で誕生。日髙氏が南イタリアで心酔した素朴な魚料理「アクアパッツァ」を店名に掲げ、ごく上質な素材をシンプルに仕立てた品々で時代を築く。1996年にはそのコンセプトをさらに押し進めた「マンジャペッシェ」(千駄ヶ谷)をオープン。今に至るイタリア料理の新しい流れを作った。
——小川さんはどのようにして日髙シェフと出会ったのでしょう。
イタリアの「ドン・アルフォンソ」(カンパーニャ州)を介してです。
僕は20代の末頃、2年間ほどイタリアで修業をしていて、後半の1年は「ドン・アルフォンソ」で働いていました。その、働いている期間のある時、ホテルニューオータニ東京で「ドン・アルフォンソ フェア」をやることに。フェアのために来日するシェフたちに同行する形で僕も一時帰国したのですが、ある夜シェフが「日本の友人の店に夕食に行く」というのでアテンドをしました。その店が「アクアパッツァ」だったのです。ここで日髙シェフと初めて会いました。
フェアが終わったら僕はイタリアに戻り、引き続きドン・アルフォンソで働いていたところ、日髙シェフがある日食事に来て再会。イタリアについて、注目している地域などについていろいろお話をしました。こうした縁もあり、僕がイタリア修業を終えて帰国した時にあいさつに行ったらアクアパッツァに誘われ、翌年には新しくオープンした「マンジャペッシェ」に入った——という経緯です。
——小川さんはマンジャペッシェとアクアマーレ(神奈川・横須賀)、2つの店でシェフをなさいました。まずマンジャペッシェでは、どのような体験をなさいましたか。
マンジャペッシェは31歳の時に入って41歳までいました。その中で、シェフは8年間くらいやっていたかと思います。
マンジャペッシェは、とにかくいい素材を使い、最小限の調理でおいしい料理を作りお出しする。そして喜んでいただき、また来ていただく――というのがポリシー。僕もそういう素材最優先のシンプルな考え方、飾りより味本位の料理が好きなので仕事が楽しく、気づいたら10年もの長い年月を過ごしていたというところはあります(笑)。
マンジャペッシェでは、とてもぜいたくな素材の勉強をさせていただきました。普段から使っているものの質が、圧倒的に高いんです。しかも日髙シェフほどのシェフになると、「素材に自信あり!」という生産者の方々が次々と売り込みに来るんです。そうした方々が持ってくるものにたくさん触れる中で、素材を見る目が養われました。これは、他のお店ではなかなかできないことだったと思います。
料理に関しては、日髙シェフは、基本的に全部こちらにまかせてくれていました。ただし、たまにアドバイスをくれる。それは、ちょっとしたハーブ使いだったり、食感のアクセントにカリカリのものを加えるといった内容なのですが、どれも非常に的確。料理がグッとよくなる。「シェフのセンスはすごい」と実感しましたね。
マンジャペッシェは大きな店で、スタッフはキッチン10人、サービス6〜7人というチーム。席は60席ほどでテラスもある。なのでシェフとして人をまとめる難しさはありました。でも、やっぱりピンの素材で料理を作る喜びの方が大きかった。充実した日々を過ごさせていただきました。
——その後2007年に、アクアマーレの立ち上げからシェフとして参加なさいます。
店の図面を引く段階から参加させていただきました。また、「この店は地産地消で行こう」と、日髙シェフがコンセプトを決定。周囲のエリアの志の高い農家さんや漁師さんを訪ねるところからはじめ、徐々にみなさんと関係を築いていく過程も楽しかったですね。
——生産者さんとつながることで、小川さんが変わった点はありますか。
それはもう、何よりも素材に関する知識が格段に増えました。野菜が畑でどう育ちどう実るか。出回るのはいつで、走り、旬、名残でどのように変わっていくか。こうしたことは、実際に畑に通わないとわかりませんよね。
仕入れは、こちらから生産者さんのもとに出向いて買うことが多かったです。行く時はランチ後の休み時間を利用していましたが、その時はスタッフを順ぐりに連れて行きました。とても喜んでいたし、何よりの勉強になったと言っています。産地が近いというのは、ぜいたくなことです。
よく覚えているのが、いちご農家さんからの仕入れの帰りのこと。いつも、車の中がいちごの香りでいっぱいになるんです。ああ、素材の力ってすばらしいな、と思いました。こんな経験、東京の店にいたらできません。
魚も、佐島に行けば活けの魚も生きたタコもいる。締め方も教えてもらえる。そういうことを知ることができたのも、自分の糧になっています。
アクアマーレでは約2年間シェフを務めました。その間、生産者の方々の力を借りながら充実した仕事ができたのは、日髙シェフが「地産地消」という新しいお題をくれたから。本当に感謝しています。
——2009年にご自身のお店「リストランテ ダ トシユキ」をオープンします。
はい。いつか独立はしたいと思っていたんです。父と叔父が精肉店を何店か経営しているのですが、その中の稼働していなかった店舗を借りてレストランにしました。入り口の「Ristorante da Toshi Yuki」の文字は、日髙シェフに書いてもらったんですよ。ショップカードなどにもロゴして使っています。
——こちらは、どのようなスタイルのお店ですか?
もともとマンジャペッシェで働いていた妻と二人で切り盛りしている、18席の店です。値段を抑え、いい素材を入れて、手を加えすぎない料理をお出しするのがモットーです。
仕入れる素材は妥協していません。野菜も魚も自信を持って使えるものを入れていますし、肉は実家が精肉店という縁から、芝浦の食肉市場の信頼できる卸の方におまかせしています。ブランド牛やブランド豚でなくてもすばらしい肉があり、それらは非常にお値打ち。特にいつも欠かさない雌の和牛のランプとイチボは、品質がピカイチ。お客さまにとても喜んでいただいています。
——今のお店で、日髙シェフから影響を受けていることはなんでしょう。
やはり、素材本位という点は明らかにシェフの影響です。
ただ僕は、日髙シェフのように時代に応じて変化を続けるのではなく、流行りを追わずに好きな料理を作り続けていくタイプ。シェフから学んだことがベースになって、ブレない。変わらない。進化していないとも言えるのかな(笑)? でもそれが一番だと自分は思うのです。
今この店は13年目ですが、ありがたいことに、うちのいつもの料理が好きで来てくださる常連の方々が多くいらっしゃる。それが僕と妻の励みになっています。
——小川さんにとって、日髙シェフはどのような存在でしょうか?
イタリア料理の師匠です。さっきも言った通り影響は相当受けているので、この店の根本を作ってくれた人だとも言えるでしょう。
あと、お客さまが飽きずにうちの料理を好きでいてくださるのは、やはり素材がきちんとしているから、というのが大きいと思います。そして僕の素材を見る目は、マンジャペッシェ時代からいい素材を手にし続けてきたから鍛えられました。これも日髙シェフのおかげです。
レストランのいちばんの理想は、常連さんに愛されながら長く続けることだと思っています。この店もそうありたいです。日髙シェフは、そうやって僕が店を長く続けるベースを作ってくれた存在なのです。
小川利幸 おがわとしゆき
1965年東京都生まれ。調理師学校卒業後、ドイツ料理、フランス料理のレストランで修業する。実家の精肉店で3年間働いたのち渡伊。「アルベルゴ デル ソーレ」(ロンバルディア)、「ドン・アルフォンソ」(カンパーニャ)で働き、帰国。「マンジャペッシェ」や「アクアマーレ」でシェフを務め、合計14年間、同グループに勤務。2009年11月に「リストランテ ダ トシユキ」を独立開業する。
リストランテ ダ トシユキ
東京都大田区萩中2-9-2
TEL 03-6423-9430
11:30~13:30LO
18:00~19:00LO
日月休
https://r-da-toshiyuki.jp
text:柴田 泉
神奈川県出身。食の専門出版社「柴田書店」にて、プロの料理人向けの専門誌『月刊専門料理』編集長を務める。独立後は食やレストランのジャンルを中心とするフリーライター・編集者として活動。