名店にはさまざまな特徴があるが、「優秀な弟子を輩出している」もその一つ。この連載では「ある店」から卒業後に活躍しているシェフたちにインタビューする。今回から3回にわたり、「分とく山」出身で今は自店構える3名の料理人が登場。第2回は山形・米沢「馬場乃町(ばばのちょう)はやし」の主人、大竹林太郎さんに話を聞いた。
〜分とく山(わけとくやま)について〜
野﨑洋光氏が総料理長を務める日本料理店。1989年西麻布にてオープンし、以来、野﨑氏は同店のカウンターに立ち続ける。店はその後広尾に移転。野﨑氏は日本料理の伝統を親しみやすく伝える活動に尽力し、メディアでも幅広く活躍。誠実で温厚な人柄でも知られ、長年にわたり料理界の第一線を走り続ける。
——大竹さんはどのような経緯で分とく山で働くようになったのでしょう。
私は山形県の米沢出身ですが、福島県の大学に通い、在学中の居酒屋でのアルバイトで飲食店のすばらしさに目覚め、卒業後にいわき市の寿司割烹で修業を開始しました。その時、楽しみに購読していたのが、創刊したての『料理百科』という若い料理人向けの月刊誌。そこで日本料理の連載で基礎技術講座を担当していたのが板長(野﨑さん)だったのです。
記事で特に興味を持ったのが、板長が料理一品ずつを本当にていねいに考え、手間をかけて作っていること。というのも、地方の日本料理店の料理は魚を焼いただけ、煮付けただけというものが多いので、板長の技術とセンスに憧れたのです。
また、雑誌の中で板長は、「料理人の仕事は、自分が好きで料理を作り、お客さまに来ていただいて、『おいしい』『ありがとう』と感謝され、お金もいただける。こんなにすごい仕事はないよ」ということをおっしゃっていました。これを読んで、私は「絶対に、いつか分とく山で働きたい」と思うようになりました。
——分とく山では何年間働きましたか? また、どのようなポジションでお仕事をなさいましたか?
約10年間、30歳から40歳までお世話になりました。最初は前菜の担当です。そのうち焼き場、カウンターをまかせていただくようになり、6年目の頃に煮方に。その1年ほど後、当時あった飯倉片町の支店に移り、そちらでも煮方をやりました。最後の2年間は、飯倉片町の料理長をさせいただきました。
——分とく山の料理で、特に学んだことは何でしょう。
「淡味(たんみ)」ということでしょうか。煮方の仕事に就いた最初の時、板長に「お前の吸い地は旨すぎてまずい」と言われたことがあります。だしは濃さよりも、スーッと自然に喉を流れるような綺麗な濃度が大事だと言うのです。それが「淡味」です。
淡味ということでもう一つ覚えているのが、春の若竹煮。びっくりしたのは、頭とはらわたを除いた煮干しで、前の晩から水に浸けてだしをとること。そうして作るだしと、筍とわかめの風味が絶妙なバランスを作るのです。煮干しのだしを使うと大衆的な料理になりやすいものですが、ここではそんなことが全然ありません。淡く自然な味が、体にスーッと入っていきます。
この若竹煮を食べた時、料理は強く主張をさせるより、シンプルに淡いほうがおいしいのだと感激しました。
ちなみに吸い地は、最終的には「大竹のだしと吸い地のあたり(味付け)は、俺が知っている中で一番」とほめていただけるようになりました。板長は覚えていないかもしれませんけど(笑)。
——料理のほかで学び、影響を受けたことはありますか。
やはり、カウンター仕事についてはしっかりと学ぶことができたと思います。「ここは舞台だから、脱力したらダメ」と、ごく基本的なところから指導をいただきました。またお客さまのご要望を先回りして察知し、「かゆい所に手が届く」ようにするのが最高のおもてなしなのだとも教えられました。
板長は、「俺より料理が上手な人はいっぱいいると思う。だけど、お客さまが来てくださる理由はたくさんあって、おいしい料理だけじゃないよ」とおっしゃっていました。大事なのは、お客さまにくつろいでいただくこと。この考え方は、私の土台になっています。
——修業の最後の2年間は料理長をまかされたということは、そこがきちんとなさっていたということなのでしょうね。
そうだとよいのですが……。私はとても不器用なので、けして板前としての技術を買われて料理長になったのではないと思っています。板長にほめていただいたのは、吸い地と昆布の佃煮の二つだけですから(笑)。
ただし自分で言うのもなんですが、私はおっとりとした人柄なので、みんなの癒し役というか、いじられ役というか(笑)。そんな、人を警戒させないところが、カウンター仕事に向いていると思っていただけたのかもしれません。
——40歳で分とく山を卒業して、41歳で故郷の米沢にお店を開かれました。今のお店で、分とく山で学んだことはどのように影響していますか。
お客さまに喜んでいただくよう最大に気を配る、気持ちよくお帰りいただくようお見送りのあいさつをていねいにする、といったことは分とく山で習慣づきました。華美な演出や豪華な素材より、よほど大切なことだと思います。
料理に関しては過剰な味付けはせず、でも必要な手間をかけ、素材に合わせた料理であるよう常に心がけています。「きちんと手をかければお客さまは喜んでくださる。逆は見抜かれるよ」と板長は言っていました。
手抜きしないのは全然特別なことではなく、あたりまえなのですが、あたりまえをしっかりやりなさい、というのが板長の教えです。
——分とく山で働いた10年間は、大竹さんにとってどのような日々でしたか?
朝早くから夜遅くまで、料理漬けの日々です。まわりの仲間もそうでした。時間を惜しんで仕事をするのがあたりまえ。全然強制じゃなかったです。
——10年間は、ひたすら働いた時期だったのですね。
でも、もっと働いている人が目の前にいるので(笑)。もちろん板長のことです。
板長は地方での講演やイベントに呼ばれることが多かったのですが、営業でカウンターに立てるように帰ってきます。撮影や執筆の仕事もひっきりなしですが、いつも全力。ある時「疲れないんですか?」と聞いたら、「新幹線の中で寝れる」とか、「死んだら寝れるから」なんて言うんです(笑)。
それと、板長は動きが本当に速い! 板長と一緒にお客さまをお見送りするときも、板長はいつもお客さま第一ですから、僕らが気づいたときにはパーッと道まで走ってタクシーを停めているんです。後から「君ら、親方にそんなことさせちゃダメだ」って言われるのですが(笑)、いくら頑張っても板長にはかなわなかったです。
「働くのが嫌で休んでいると、歳を重ねていざという時に体が動かなくなるよ」ともよくおっしゃっていました。私も板長のように、何歳になっても、いつでもパッと走り出せる人になりたいと、本当に強く思います。
——今も野﨑さんは、大竹さんにとって大きな存在ですね。
それは、もちろんそうです。
いつも冗談で、「僕、板長のこと大好きなんですけど、苦手です」って言うんです(笑)。前にも言いましたが、私は癒し系、いじられ系のキャラクターなので、会った時に、からかわれる感じで板長が僕にくっついてくることも。この間も、頬擦りされんばかりの距離に寄られました(笑)。
それだけ近く感じていただいているのだと思うのですが、正直、緊張するんです。「あまり近づかないでください」って言います(笑)。ちょっとおもしろい関係なのです。
板長を初めて雑誌で見て憧れてから、今もずっと憧れは続いています。追いつきたいとは思うのですが、私からしたら、まだまだぐうの音も出ないくらい存在感の大きな人です。
大竹林太郎 おおたけりんたろう
1973年生まれ、山形県米沢市出身。福島県の大学に進学し、在学中のアルバイトで飲食の世界に興味を持つ。卒業後はいわき市の寿司割烹にて修業する。30歳で上京、「分とく山」に入る。10年間勤務し、うち最後の2年間は飯倉片町にあった支店の料理長を務める。2013年に退職し、翌年、米沢市内に「馬場乃町 はやし」を開業。
馬場乃町 はやし
山形県米沢市城南1-6-18
TEL 0238-40-8877
https://www.facebook.com/babanochohayashi/
text:柴田 泉
神奈川県出身。食の専門出版社「柴田書店」にて、プロの料理人向けの専門誌『月刊専門料理』編集長を務める。独立後は食やレストランのジャンルを中心とするフリーライター・編集者として活動。