師匠と弟子の物語 (11) 分とく山出身 新野修司さん(おでん にいの)


名店にはさまざまな特徴があるが、「優秀な弟子を輩出している」もその一つ。この連載では「ある店」から卒業後に活躍しているシェフたちにインタビューする。今回は、3回にわたって「分とく山」出身の料理人が登場するシリーズの最終回。福岡・警固「おでん にいの」の主人、新野修司さんに話を聞いた。

〜分とく山(わけとくやま)について〜
野﨑洋光氏が総料理長を務める日本料理店。1989年西麻布にてオープンし、以来、野﨑氏は同店のカウンターに立ち続ける。店はその後広尾に移転。野﨑氏は日本料理の伝統を親しみやすく伝える活動に尽力し、メディアでも幅広く活躍。誠実で温厚な人柄でも知られ、長年にわたり料理界の第一線を走り続ける。

器用より、常識と思いやりが大事と教えてくれた

新野さんはいつ、何年間分とく山で働きましたか?

僕は高校卒業後に分とく山に入社して4年間と少し働きました。でも実は高校2年生の時から、夏休みなどの長い休みには分とく山でアルバイトをしていたのです。福岡に住んでいたので、休みのたびに上京して、です。

なので厳密に言うと、高校時代から含めておよそ6年間お世話になりました。

どのような経緯で、分とく山でアルバイトするようになったのでしょう。

高校入学早々に体育祭で大怪我をして、4ヶ月ほど入院をすることになったのです。その時、料理好きだった僕に母が「時間があるのなら読んでみたら?」と持ってきてくれた料理本の中に、板長(野﨑さん)の本がありました。料理のおいしそうなこと、そして説明のわかりやすさにすっかり虜になり、「自分はここで働く! 高校中退してすぐに行く!」と決心したのです。

そうと決めたら、入院中に板長に手紙を書きまくりました(笑)。「高校辞めて行きます!」など熱い思いをとにかく書き連ねて何通も何通も手紙を送り続けたら、根負けなさったのか、高校卒業を諭されつつ「じゃあ、春休みとか夏休みにおいで。でもアルバイトだよ」と言ってくれて、そこからはじまりました。

アルバイトではどのような仕事をしていましたか?

やはり洗い物が多かったですが、先輩たちがやさしくて「魚さばくか?」「これ千切りにする?」と包丁持たせてくれたり、まかないを作らせてくれたり。「なんて楽しい職場なんだろう!」と思いました。

でも、入社したらガラッと変わったんです。

どう変わったのですか?

無茶苦茶厳しくなりました。「あいさつがなってない!」「用意がだめ!」「白衣の着方がなってない!」など、怒られてばかり。

結局それまでは「料理大好き少年」だったのが同じ立場になった。そして一番下っ端です。なので当然ですよね。

おでんは白おでん(右)と黒おでん(左。秋冬限定)の二種類を作る。白おでんのだしは、ベースとなるだしに塩と料理酒のみで味つけし、あとは練り物などからの甘みを調和させたもの。黒おでんでも同様だが、調味料は黒糖、熊本の赤酒、たまり醤油。「こちらは九州のイメージ」と新野氏。
おでんは白おでん(右)と黒おでん(左。秋冬限定)の二種類を作る。白おでんのだしは、ベースとなるだしに塩と料理酒のみで味つけし、あとは練り物などからの甘みを調和させたもの。黒おでんでも同様だが、調味料は黒糖、熊本の赤酒、たまり醤油。「こちらは九州のイメージ」と新野氏。

洗い物と掃除の一年

どのようなポジションからはじめましたか?

それが、僕、最初の1年間はポジションがなかったんですよ。まともに包丁も持たせてくれませんでした。同期が半年後には魚を触っていたので「なんで!?」なんて思って……。

ポジションがなくて何をやっていたかというと、洗い物と掃除、雑用、漬物を切ることなど。そうなると、「だったらこれを究めよう!」と思うように。

僕が洗い物をしたら誰よりも早く綺麗、正確にできるよう、いろいろなものの配置を考えなおすなど、あらゆる工夫をしました。また営業中は、ただ洗うのではなく、いつも厨房の様子を考え感じとるよう徹底したんです。そうすれば、いざ料理を作ることになったら、焼き物をしながら煮物をするなどの状況に対処しやすいはず。コース料理は時間との戦いなので、それに対応するトレーニングと思いながら洗い物をしていました。

漬物も、「漬物一つ切るにしても、綺麗に切れなかったら、刺身なんてまともに切れるはずない」と置き換えながらイメージトレーニングです。

掃除も、休みの日にも店に来て厨房を磨き上げました。それと、帰宅後は包丁で桂むきなどを何度も練習して、どのポジションを突然指名されても大丈夫なよう、準備もしていたんです。

そして営業中は板長や先輩の動きを全部見ていました。

それは、どういうことでしょう。

とにかく板長と先輩を観察するのです。どこに目線をやっているか、今何を思考しているか、これからどんな流れで動き、話すのか。料理を覚えるのではなく、僕は1年間これに費やしたと言っていいくらいです。

そうすると、板長や先輩が「あれ持ってきて」と言う3秒前にさっと出すことができるようになりました。

1年間経ったあとは、どのような立場になりましたか。

それがなんと、2年目に入ったある日、全スタッフ参加の朝礼の時に、板長から厨房に入って料理をやるように言われたんです。しかも先輩たちしかできないポジションである煮方で。「でも、一度でも失敗したら洗い物に逆戻り」とも。気合を入れて、なんとか1年間やりきりました。

それはすごい! なぜ、1年間洗い場の後、突然煮方に引き上げられたのだと思いますか?

1年間洗い場だったのは、僕が器用貧乏な人間だったからだと思います。しかも八方美人で世渡り上手(笑)。なので、修業一年目から生意気に調子に乗らないよう考えてくださったんだな、と今ふり返って思います。

煮方になれたのは、きっと板長が、僕が掃除に熱心で、洗い物でも独自の工夫をしていたのを見てくれていたからだと思います。あと営業中に3秒先の反応ができるくらいに板長の動きを読んでいたことも、評価してくれたのかもしれません。

煮方の後は、どのようなポジションに?

飯倉片町の支店で、前菜などを主に担当するポジションに就きました。この時、飯倉片町店のトップだったのが小野さん(小野秀樹氏)。当時の板長の一番弟子で、ものすごく有能で仕切りがすばらしい。仕事だけでなく、人間的な部分でも憧れていました。

ただし小野さんには、本当によく叱られました。自分が悪いのですけれど。「その片足重心の包丁の使い方はなんだ!」「なんで業者さんにすぐにお茶を出さない!?」などなど。料理に対する姿勢や、人間的に大切なことを学びました。

これはきっと、板長から小野さんに引き継がれている姿勢そのものなのだと思います。「人としてあたり前のことを、あたり前にやる」のは本当に大事。そこを叩き込まれたのです。

仕事に関しては、僕は修業の最初の一年間で、洗い物を夜の営業中の動きに置き換えてトレーニングをしていたおかげで、器用に動けるようになっていたと思っています。

また一年目は、「早く包丁を持って仕事をしたい」と思うより、「僕はどんな動きをしたら、板長や先輩たちが仕事をしやすいか。この店の役に立つか。そしてお客さまが喜ばれるか」をいつも考えていました。そういう点では、他の人と仕事を見る角度が違っていたかもしれません。これは、2年目も飯倉片町の店でも心がけていたことです。

鯛と塩ウニの土鍋ご飯。だしを使わず、塩漬けした鯛と米を水から炊くのが特徴。鯛の味をはっきりと出す。仕上げに塩ウニ、そして生わかめを混ぜ込んで磯の香りを立たせる。
鯛と塩ウニの土鍋ご飯。だしを使わず、塩漬けした鯛と米を水から炊くのが特徴。鯛の味をはっきりと出す。仕上げに塩ウニ、そして生わかめを混ぜ込んで磯の香りを立たせる。

板長の発想とライブ感にしびれた

4年で分とく山を卒業し、地元福岡で独立開業なさいます。

はい、22歳で卒業して、23歳で警固に店を開きました。今年で20年になります。

お店をなさっていて、分とく山の影響を感じるのはどのような点ですか?

まず挙げたいのが接客です。今のカウンター仕事に非常に生きています。

人と接する時の板長の絶妙な間合い、呼吸法は、本当に学びが多かったです。お客さまが軽く咳き込んだらさっと水を出す、80代のお客様で咀嚼がきつそうなら締めの土鍋ご飯は柔らかめに炊く、など。

「それはあたり前だよね」なんて思うかもしれません。でも、いざ働いてみるとできないんですよ。それを難なくなさるのが板長。思いやりの心が半端ないのです。だから敏感に察して動くことができるんです。

あと技術面では、だしのとり方と考え方も学びました。それと味付けです。

僕はおでん屋でして、練り物や厚揚げなどはすべて手作りしています。それらを営業前からだしとともに一つの味にまとめ上げていく。最初はだしに味があまりない状態から、素材からどんどんいい味が出てきます。

その際、具から出る味や塩気は毎日違うので、「鰹節はここまで足さないと追いつかない」「鶏ガラは今日は少なめ」などと調整して、一つの集合体にする。そうした全体を考えて味付けすることは、板長に学びました。

ところで、おでん屋さんをやろうと決めたのは、なぜですか?

最初は小料理屋さんをやるつもりでした。となると、一人で料理をするから提供まで時間がかかるかもしれない。まずはおでんでもつまんでもらおうかな……と思って出していたら、とても好評で(笑)。自分もおでんの深い世界にはまり込んでいきました。

もちろん一品料理や刺身も出しています。そちらも好評です。

—最初は小料理屋をやろうと思ったのですね。

はい、これには圧倒的な理由があるんです。

板長は分とく山が休みの日曜日、よく、とく山(分とく山の本店)のカウンターに立っていて、そこでも僕はサポートに入っていました。

分とく山はあらかじめ準備しておいた懐石コースの店ですが、とく山はその場で料理を考えてお出しする店。まさにライブ。そこでの板長は、分とく山と全然違って見えたのです。

一つ強烈覚えているのが、筍の料理。ある時、大きな筍が入った日がありました。そうしたら板長はザクッと皮ごと輪切りにして、油で揚げたんです。そこに山椒を散らし、鰹節をフワッとのせ、醤油をたらしてお出しした。お客さまはもう、大喜びです。「こういうのが本当においしいよね!」と。僕もちょっといただいたのですが、これが無茶苦茶おいしい!

僕はそのおいしさと発想とライブ感にしびれて、「自分の料理道があるのなら、僕はこれをやる。そして料理人人生をまっとうする」と決めたのです。

スーパー親父、心の中では神様

今も、野﨑さんとは連絡を取り合うのですか。

はい、電話でもよく話しますし、板長は料理フェアなどで福岡に来ることが結構あるので、そうした時に会いますね。

いつも言われるんですよ。「お前は俺が認めた天才だ。だけど……」って(笑)。必ず「だけど」がつく(笑)。それを聞くたびに「分とく山の出身者として恥ずかしくないよう、もっと頑張らねば!」と身が引き締まります。

野﨑さんは、新野さんにとってどのような存在ですか。

よく、板長には「板長は僕のスーパー親父です」って言うんです。実際、親父みたいな存在です。でも心の中では、板長は料理の神様ですね。もう、昔からそうです。

板長は、野球の監督でいうと野村監督だと思っています。科学があり、実績もある。いつも理にかなっている。人柄も慈悲深い。だから料理の神様です。

前、電話で冗談めかして「いずれ俺が引退したら、全国を回って料理を作るのも楽しいかもね」って話をしていたんです。「そうしたら、お前はついてくるんでしょ?」って(笑)。嬉しいのですが、「いや、僕、自分の店持っているんです」って言いました(笑)。

でも心の中では行きたいですね。板長は人間的にも料理人的にも尊敬しています。本当に、僕にとって神様みたいな人です。

新野修司 にいの・しゅうじ
1980年、福岡県生まれ。高校在学中の17歳の時から、長期の休みの際に分とく山でアルバイトをする。卒業後、同店に入社。4年間修業し22歳で退職、23歳で福岡市内の警固に自店をオープンする。

おでん にいの 福岡県福岡市中央区警固2-10-8 TEL 092-751-2400

おでん にいの
福岡県福岡市中央区警固2-10-8
TEL 092-751-2400

text:柴田 泉
神奈川県出身。食の専門出版社「柴田書店」にて、プロの料理人向けの専門誌『月刊専門料理』編集長を務める。独立後は食やレストランのジャンルを中心とするフリーライター・編集者として活動。

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