ウクライナ軍の最前線で戦った経験のある非凡なシェフ、ユージン・コロリョフさんと、共同オーナーであるウクライナ人事業家、ポリーナ・シホヴァさんが伝えたい、ロンドン発の現代ウクライナ料理とは?
「ウクライナ料理は今、どうしても戦争という文脈の中で捉えたがる人が多い。でも、もうそれをやめて、純粋な食ジャンルとして見てほしいんだ」と、ウクライナ人シェフのEugene Korolev / ユージン・コロリョフさん(写真下)は言う。ユージンさんは今年5月に西ロンドンのノッティング・ヒルにオープンした現代ウクライナ料理店「SINO / シーノ」の発起人の一人であり、エグゼクティブ・シェフである。
かくいうユージンさんは、ロシアがウクライナに侵攻した2022年2月、故郷ドニプロの自身のレストランを離れてウクライナ軍に志願入隊し、翌年9月まで共に戦った経歴がある。その後、縁あってロンドンでウクライナ料理レストランをオープンしたいと切望していたウクライナ人事業家のPolina Sychova / ポリーナ・シホヴァさんと出会い、SINOのビジョンが生まれた。
先日、SINOでランチをいただいたのだが、衝撃的な体験だった。久しぶりに料理の未体験ゾーンに放り込まれたのだ。発酵チェリー・グレーズと大葉のコラボがニクい完璧なナマズ料理、自家製の蕎麦チョコレートをビスケットに混ぜ込んだ洗練のウクライナ名物ハニー・ケーキ。これまでウクライナ料理と聞いて思い浮かぶのはチキン・キエフやシチュー、ダンプリング料理くらいだった筆者の先入観はことごとく粉砕され、新たな地平に立たされた。SINOはまさに、そんな感じのニューフェイスだ。
ユージンさんはウクライナ東部のドニプロ出身。美食のワールドカップ「ボキューズ・ドール」のウクライナ代表シェフを務める実力者だ。これまでケルン近郊の2つ星「Vendôme / ヴァンドーム」、ポーランド初のミシュラン・レストラン「Atelier Amaro / アトリエ・アマロ」、パリの一つ星「Benoit / ブノワ」をはじめ、ヨーロッパ屈指の厨房で研鑽を積んできた。2021年にドニプロに初の個人プロジェクト「Manufactura / マニュファクチュラ」を立ち上げたが、翌年にはウクライナ軍に志願・従軍し、一年半を戦った経験がある。
現在34歳のユージンさんは、筆者のインタビューに答えて「ウクライナ料理」というジャンルについて丁寧に教えてくれた。
「ウクライナは1991年にソビエト連邦から独立するまで、約70年に渡ってソ連の一部だった。どの地方自治体もソ連政府が配給する同じ食材を使って、同じものを作って食べることを求められていた時代だ。すべてが『スタンダード』と呼ばれるガイドラインに従わなくてはならないんだ。配給食材も、配給量も同じ。食材は産業色の強い工場で作られたものだった」。
ユージンさんはソ連時代の食文化について「本当につまらないものだった」と言う。レシピも決められていたので、例えば伝統料理を作るときでも新しいハーブや調味料を加えたりすることもできない。「個人レストランもあったけど、『スタンダード』から大きくはずれることは許されていなかった。ウクライナ全体が、同じ豚肉、同じジャガイモ、同じトマトを食べていたんだ。冷戦の真っ只中だから、何かクリエイティブなことを取り入れようとするとすぐに抗議行動やスパイ活動に結び付けられてしまってね」。
ソ連はいわゆる同化政策をとって、ウクライナの歴史や文化を自国に取り込み、変えてしまおうとしていた。ウクライナはそれらを守るために必死だった。
「ソ連が解体され、僕たちの独立が成ったとき、さまざまなことが起こり始めた。人の移動が始まり、新しいウクライナ・レストランもオープンした。でも基本的に新しい器具や設備がなかったことから、どうしても家庭料理のようにならざるをえなかった。スープやダンプリングなど、基本的にお腹にたまる伝統料理だ」。
それでも食文化は華やぎを取り戻し、2015年以降はクリエイティブなことをする基盤が生まれ、新たな潮流が生まれてきた。2021年の戦争前まではその気流が盛り上がり、投資家も出てきていいレストランも生まれてきた。地産地消の考え方も実行され、ウクライナ料理というジャンルが、まさに確立されようとしていたのだという。
しかし戦争が始まってすべてが変わってしまった。生産者とのスムーズなロジスティクスが絶たれてしまったうえに、外からの人材も来なくなってしまった。以前と同じ生産者との取引が難しくなり、食材が限られるようになった。
「一方で、戦争によって僕たちが何を食べて、どんな暮らしをしているのか、文化全般に世界中から注目が集まり、シェフにとっては自分たちを表現するチャンスが巡ってきた時期でもあった。成長するチャンスでもあったんだ」。
戦争の最前線で戦っていたユージンさんは2023年9月に除隊し、厨房に戻った。SINOでは現在閉店しているドニプロのレストランからシェフたちを呼び寄せ、ウクライナ人チームで取り組んでいるという。
「ロンドンではウクライナ料理なんてまったく知らない人がほとんどなので、まず知ってもらうことからだと思う。生鮮食品は英国最高峰の食材を集めているし、輸入が難しくなっている今、特別な調味料や乾燥食材などは個人輸入でかろうじて対応している」とユージンさん。
ウクライナ料理にはラードが欠かせないそうだが、SINOでは「重くなりがちな料理」という先入観を取り除いていくため、意図して繊細で軽い料理を開発している。その一端を担う面白い食材に「蕎麦粉」がある。ウクライナでは、一般家庭で日常的に蕎麦粉を使った料理を食べるのだそうだ。
私がいただいたほのかな甘みのある蕎麦粉のパンは、モチっとした歯応えとしっとり感を実現しており、蕎麦ハチミツをたらしたバターをつけると最高だ。そしてSINO名物になりつつある伝統のハニーケーキ(冒頭写真)。これは端正な見た目の美しさ、蕎麦粉の持つ素朴さと洗練が一体となった味わいで、ここを訪れる誰もに試していただきたい逸品。クリーミーな本体と、ローストした蕎麦の実をココアバターと一緒に挽いた自家製の蕎麦チョコレート入りビスケット、蕎麦ハチミツが決め手だ。現代ウクライナ料理の騎手、ユージン・コロリョフの本領を感じられる渾身のデザートでもある。
もう一つ、筆者を唸らせた一皿がある。ナマズのBBQだ。淡白で噛み切りやすい白身、まろやかな酸味を感じるチェリー・グレーズ、そこに大葉が加わり見事な調和を見せる。ユージンさんはこう説明する。
「この皿はものすごく複雑なテクニックを使っている。伝統料理ではないけれど、ウクライナではナマズをよく食べるので調理法をよく知っているし、使ってみようということになった。イギリスでナマズはあまり人気がないのは承知のうえでね。新鮮なナイジェリア産のナマズを取り寄せている。彼らはきれいな水で育つので臭みが少ない。これを10日間熟成させ、歯応えを整えていく」。
グレーズは、サワーチェリーと柚子胡椒、チリ、レモンなどを使って発酵させてチェリー・ペーストを作るそうだ。ウクライナのソーセージ入りパプリカのソースも軽く仕上げられており、ナマズとよく合う。細切りの揚げポテトがソースに絡まることで、次第にパスタ状態になるのだが、これもリッチだが軽さがある。日本人はかなり好きな味なのではないだろうか。
現状、そして今後の展望についてユージンさんはこう語ってくれた。
「オープンしたばかりで改善点もたくさんあるけれど、新しい環境と食材でできる限りをやっている。本当のところ、戦争をめぐる文脈の中で心ないことを言われるときもある。でも僕たちのレストランは戦争と結び付けないところで評価してもらいたいんだ。純粋に現代ウクライナ料理として、どうか。食事のクオリティや生産者、インテリア、食器など、通常のレストランを見るように見てほしい。今後、ロンドンやイギリスだけでなく、世界へ向けて『ウクライナ料理は美味しい』ことを発信していければと思っている」。
そしてこれは、共同オーナーであるポリーナさんの思いとも通じている。
今回初めて本物の「現代ウクライナ料理」に接して、その素晴らしい遺産と芸術に心底驚かされた。もちろん非凡なシェフ、ユージン・コロリョフさんの力量とチーム力があってこそ。ウクライナの今の煌めきを感じるために、また近々再訪したい。
SINO
https://www.sinorestaurant.co.uk
text・photo:江國まゆ Mayu Ekuni