すし屋の門を初めてたたいてから50年以上もの間、すしを握り続ける銀座「すきやばし次郎」の主、小野二郎さん。彼が求め続けるすしとは、職人の姿とは。二郎さんが「もっとも信頼していて話しやすい」と名をあげる料理評論家、山本益博さんが、その言葉を聞き出す連載。ジャンルを超えてすべての料理人に伝えたい。
すし屋にとってマグロは特別な意味を持ちます。艶やかな赤色と脂ののりは、握ってよし、巻いてよし。マグロの赤とシャリの白のコントラスト、そして食べれば身のうま味と濃厚でとろけるような脂のおいしさが味わえる。まさにすしの王様なんです。そういえば(ジョエル・)ロブションさんはうちの中トロ、大トロを食べて「バターみたいだ」と言われていましたね。実はあの方、霜降りの肉が嫌いで赤身のほうが好きだそうなんですが、霜降り状になっていてもうちの大トロは大丈夫なんですよ(笑)。
そういう上物のマグロを常に置けるかどうかがそのまま店の格になっているものですから、多くのすし屋は「まずは自慢のマグロを」と、一貫目で出してくるところが多かった。かくいう私も昔はそうでした。でも、以前の「おまかせ」のテーマでお話したように、今はやめたんですよ。レストランのコースではステーキから始めませんからね、それと同じ理由からです。まずは口当たりのさっぱりとした白身から食べてもらって、イカ、色ものと続いて、赤身、中トロ、大トロとマグロを続けて握る。このほうが、主役がぐんと引き立つようになったと思っています。
以前はマグロといったら中トロ、大トロでしたが、最近は赤身も人気のようです。山本(益博)さんが「マグロの神髄は赤身にある」と言い続けてくれたからでしょう(笑)。確かに、赤身特有の爽やかな血の香りと酸味はなんともいえない魅力です。でも10年前までは考えられなかったですよ。うちは当時お好みで握っていたから、中トロばかりがどんどん減って赤身が残る状況が続いていました。毎日、毎日、まかないで赤身ばかりを食べたり、同じビルの銀行員に50個の鉄火丼を作ってあげたりしたこともあったんですよ。
赤身といえばヅケを注文される方もいますが、うちはすぐにはできません。薄い切り身なら5分間も漬ければいいのですが、そうすると中まで漬かってせっかくの香りが飛んでしまいます。何より、生で握るほうがはるかにおいしいと思っているんです。だから、漬け込むのに適した赤身があったときだけ、サクのままでその状態に合った漬け込み時間を計算して漬けます。ヅケは要予約ということでご理解いただいています。
それにしてもこのマグロ、最近は本当にいいものがなかなか入らなくなってしまいました。温暖化の影響なんでしょうか。脂がのっていないし、香りが薄いように思います。うちでは本マグロをブロックで仕入れて、給水紙を巻いてさらに紙で包み、ビニール袋に入れてから氷を詰め込んで寝かせているんですが、ふつうなら5日程度で熟成が進んでしっとりやわらかくなってくるのに、最近は、いくら寝かせてもそうはならないものが多い。
世界中の人たちがマグロのおいしさに気づいてしまったことも、マグロ不足の原因のひとつでしょう。ただ幸いなことにと言うと変ですが、まだ外国の人たちが本当のマグロのうまさには気づいているとは思えませんね。いつぞや、すごい高値で外国に買い取られたマグロがありましたが、その値段に見合ったマグロの質だったかどうか、疑問です。まだマグロブランドだけで買っているのでしょう。それが、真のおいしさに気づいたとき、そして彼らにお金があったとき、日本にマグロが入ってこない時代は来るかもしれません。
今でも大トロはうちでは1貫3000円で、これでも赤字な状況なのに、幻となって、もうとんでもない額になってしまう可能性もある。すし屋からマグロがなくなるかもしれない。すし屋の看板ネタがこの状況ですからね。以前、『すきやばし次郎 旬を握る』(文藝春秋刊)という本で、マグロのノウハウを徹底的にご紹介したことがありますが、その産地や種類、考え方、やり方はもう遠い昔のもの、という内容もなかにはあります。一本釣りが最高ですが、今では多くが延縄ですしね。
魚を巡る環境が激変している昨今、近海本マグロ、輸入マグロ、天然、養殖、冷凍技術、熟成方法など、あらためて一から勉強し直すいい機会だと思います。そのなかで、自分が最高だと思うものを見つけ出せばいいのではないでしょうか。今はそういう時代です。
脂が強く筋の多い「蛇腹の砂ずり(下腹側)」と、脂が霜降り状になっている「霜降り」がある。熟成具合を確認しつつ、食べ頃を見極める。
背ビレの下にある中トロ。赤身のなかにうっすら白い脂身が美しく光る。脂部と赤身部からくるやわらかくしっとりした味わいが特徴。
マグロのなかで一番多くとれる赤身。10年前はほとんど見向きもされなかったが、しっとりとして肌理(きめ)が細かく、最近は人気が高い。
赤身のサクを煮切り醤油に漬け込んでから握る。薄い身のままで漬けると中まで味がしみ込み過ぎてせっかくの香りが飛んでしまうからだ。
中トロのサクの幅が広い場合は、脂の強い部分を切り落とす。この濃厚な部分は「エンピツ」と呼ばれ、ごくわずかしかお目にかかれない。
山本益博 監修、管洋志 撮影
本記事は雑誌料理王国第167号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第167号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。