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【座談会】吉野建さんの思いを引き継ぐ8人の愛弟子たち


「ステラ・マリス」「タテル ヨシノ」など、これまで長きにわたりレストランでシェフを務めてきた吉野建さん。後の名シェフとなる若き料理人たちを数多く受け入れ、輩出してきたことも大きな功績のひとつと言えるだろう。このたび、吉野シェフのもとで鍛錬を積んだ8人が集結。師匠を囲んでの貴重な座談会がここに実現した。

座談会参加者(左から)
「メゾン」渥美創太さん
「スブリム」加藤順一さん
「タテル ヨシノ」パートナーシェフ 𠮷野 建さん
「ラチュレ」室田拓人さん
「エスキス」成田一世さん
「レ・カネキヨ ビストロノミーフランセーズ」藤本 清さん
「タテル ヨシノ 銀座」関 好志さん
「ル モマン」浅岡達矢さん
「オテル・ド・ヨシノ」手島純也さん

あらためて振り返る吉野 建とは?

その名が有名なあまり知った気になりがちだが、吉野さんの料理人としての経歴は膨大な情報量を有する。この機会に、シェフ吉野建のプロフィールを紐解いてみよう。

Tateru Yoshino
生年月日:1952年8月10日
出身地:鹿児島県喜界島

【渡仏〜日本での出店まで】
1979年 渡仏し、1984年の帰国までに「アルケストラート」「トロアグロ」、当時ジョエル・ロブションが率いていた「ジャマン」などで修業を積む。
1984年 日本に戻り「光亭」「ロア・ラ・ブッシュ」のシェフを務める。
1989年 小田原に「ステラ・マリス」をオープン。

【パリ「ステラ・マリス」時代】
1997年 パリ8区の凱旋門近くに「ステラ・マリス」を開店。
1998年 エスコフィエのレシピを元に、「テット・ド・ヴォー 海ガメ風」を再現。仏紙『ル・モンド』に取り上げられ、フランス全土で評判となる。
2000年 優れた野ウサギ料理に与えられる「リエーブル・ア・ラ・ロワイヤル」最優秀賞を獲得。
2006年 フランス版ミシュランガイドで念願の星を獲得。以来2012年度版まで継続して星を保持。
2007年 スイス・ダボス会議にて料理を担当。フランスの「アカデミー・デュ・ジビエ」より、「ステラ・マリス」の「リエーブル・ア・ラ・ロワイヤル」に対してディプロムが授与される。
2010年 フランス政府より農事功労章シュヴァリエを贈られる。
2010年 パリの「ステラ・マリス」が、セーヌ河のクルーズ船「PARIS EN SCENE」のディナープロデュースをスタート。
2011年 フランスの国家最優秀職人章においてアジア人の審査員を務める。
2013年 毎年ベルギーにて行われるiTQi(国際味覚審査機構)による 「優秀味覚賞」の審査員を務める。パリ「ステラ・マリス」を惜しまれつつも閉店。

【日本での出店・プロデュース】
2003年 東京・芝に「タテル ヨシノ」オープン(2015年に閉店)。
2005年 和歌山に「オテル・ド・ヨシノ」オープン。
2008年「レストラン タテル ヨシノ 銀座」オープン。
2014年「レストラン タテル ヨシノ 汐留」を「タテル ヨシノ ビズ」へリニューアル。「ブーランジェリー タテル ヨシノ プリュス」開店。
2010年 香川県直島のベネッセハウス内レストラン「海の星」をプロデュース。
2011年 東京・広尾に「ラ・トルチュ」をオープン。豪華客船「飛鳥Ⅱ」のゲストシェフを務める。
2016年 大阪・ANAクラウンプラザホテルにプロデュース店「メゾン タテル ヨシノ」オープン。翌年「ミシュランガイド京都・大阪2018年度版」にて一つ星を獲得。

日本人としてパリに出店
批評の声が教訓であり励みに

──吉野さんはオーナーシェフとして1997年にパリで「ステラ・マリス」をオープンされましたが、海外で最初に店を出すうえでの苦労とは、どのようなことでしたか?

吉野:やはり先立つものとして必要なのが資金集め。現地の銀行へ行っても実績を持たない日本人にお金を貸してくれるような銀行はなかったから。オープンして半年くらいは自己資金でなんとか頑張って、店の評判が少しずつ上がってくると、今度は銀行から「いかがですか?」と声をかけられるようになった。それでも、こちらが銀行を選ぶような余裕はなくて、声をかけてくれるところに頼むという選択肢しかなくてね。日本人が多く住んでいる地域なら、日本人へお金を貸すことにも慣れていたようです。でもパリにある銀行のピラミッド店へ融資の相談に行ったら、スパっと断られた。そんな経験もありました。

いずれ結果が付いてくるまで
ひたすら頑張るしかない。

──当時はどんなことが励みになって
いたのでしょうか?

吉野:料理を作っていることは純粋に楽しかったですね。しょっぱなから店が上手くいくとは思っていなかったけれど、地元メディアで書かれることが教訓にもなり、励みにもなった。向こうでは日本にはなかった「評価」というものの存在が大きくて、辛口の批評家や影響力を持つ人たちがいる。向こうで勝負するからには、いずれ結果がついてくるまでひたすら頑張るしかないと思っていました。

思い出は山ほどある
愛弟子それぞれの修業時代

──渥美さんは現在もパリを拠点に活躍されていますが、「ステラ・マリス」でのことを振り返り、何か苦労したことはありましたか?

渥美:苦労はしていないですね。初期のビザの問題くらいでしょうか。学生時代にフランスへ行って、学生ビザが切れた後もパリに留まりたいと希望していた僕を、吉野さんが雇い入れてくれました。ひとりで食事をしに行って直談判したんです。「ステラ・マリス」は吉野さんをはじめスタッフはほとんど日本人だったので、語学面やコミュニケーションで苦労することもありませんでした。

──「ステラ・マリス」での思い出は?

渥美:沢山ありますが……。たとえばカラオケとか。(一同爆笑)

吉野:仕事が大変なぶん、楽しいことがないとね。それに歌って声を出すのは健康的にもよいことだからね。そうだな、純(手島さん)、それに清(藤本さん)はカラオケがうまいね。創太(渥美さん)は向こうへ行って13年かな。今年の9月にはパリで自分の店を出すようだけど、ほとんどの人が日本に帰ってくるなかで、そうやって向こうに残って頑張り続けるのはすごいことだと思う。

渥美:フランスには日本以上にいろんな人がいて、気質的に自由な人が多いところが自分の肌に合っていると感じます。そういう人たちに囲まれて自分も自由にできるのが、今も一番楽しいですね。

吉野:創太は「ステラ・マリス」に来た時は何歳だった?

渥美:20歳ですね。

手島:創太がきた当時は「ステラ・マリス」が一番厳しかった頃。吉野さんも厳しかったし、自分たちも創太とは10歳以上歳が離れていたので。

:スタッフもみんな熱かった。

藤本:確かに。厨房内で振り返ると、後ろで誰かが喧嘩していたり(笑)。でも、そういう人たちがいたから、いいものができた。喧嘩の理由は下らないものから真面目な衝突までいろいろでしたけれど。

:私はお菓子とパンを担当した期間が長かったのですが、手探りの中、毎日パンを焼かせてもらったことが、すごくためになりました。前菜では食材との出会いや、新しいアプローチに学ぶことが多かったです。

手島:関さんとは1週間違いのほぼ同期でしたね。自分は吉野シェフのところで働くまで、本気でガストロノミーをやっている人の元で働いたことがなかった。最初の1年半は毎日怒られていましたね。シェフが『情熱大陸』に出演した影響で、僕のような若者がいっぱいいました。少しでもいろんなことを吸収したかった。しかも、そこにあった料理がどれも素晴らしかった。ミシュランで三つ星を獲っているレストランはたくさんあったけれど、「ステラ・マリス」は絶対に負けていないという自負もありましたね。

瞬間ごとに一皿と向き合い
最善の一皿に仕上げるプライド

──浅岡さんは吉野シェフからどのようなことを学びましたか?

浅岡:毎日しがみつくので必死でした。シェフと同じ空気に触れていられるだけでも吸収できることがあって、シェフがそこにいるというだけでも学びにつながる、つねにそんな空気感が厨房にはありました。

楽しんだ気持ちを忘れないでほしい。
必ずいいことがありますよ。

──そのような「タテル ヨシノ」の厨房の空気感を作っているものに、独特のメソッドはあったのでしょうか?

浅岡:すべてがシェフを中心に回っていて、シェフが法そのものなんです。たとえば同じメニューを同じように作っていても、次の皿では「違う」と言われる。最初は自分もそれが理解できなかったし、ついていけない人は多かったですね。でも今ならその理由がわかります。一皿一皿、ひとつとしてまったく同じ料理はない。そんなところにも、シェフがパリの「ステラ・マリス」でプライドとして築き上げたものを、日本でも再現していると感じますね。

成田:「ステラ・マリス」のプライドは、自分がいた当時からみんなの中にも確固としたものがあって、それが店のクオリティにぐんぐん現れていた。誰もがその中で一番になりたいと考えて、シェフに認めてもらうために一生懸命その責任を果たして。当時のそんなプライドが、今も個々の店に息づいていると感じます。

フランスで挑戦する人たちの
登竜門的な存在「ステラ・マリス」

成田:日本で仕事ができたはずの人も、シェフの店ではバサバサと切られてしまうので(笑)。そこを乗り越えた人はみんな、どこへ行っても自分の仕事を何食わぬ顔でやれてしまう。シェフの前で仕事をしたという経験は、それだけ料理人を鍛え上げてくれるということなんです。

室田:私の場合は同年代が多くて「負けたくない」という思いが強かったですね。焼き場を担当するようになり、それがシェフの隣だったことから、つねにシェフの考えを察知する能力が磨かれました。今はその相手がお客さまになっていますね。当時、 料理を出す前にシェフの目の前を通さなければならず、逆の隣には成田さんがいたので、そのプレッシャーたるや(笑)。いかなる状況でも落ちがあるからですよ。

吉野:室田は手際がよかったよ。賄いのパスタも「なんでこんなに早くおいしいものが作れるんだ?」って。

室田:いつも不意打ちで、10分で出さなければならなくて……。

手島:誰もが通ってきた道ですね。

加藤:僕も賄いのパスタには思い出がありますね。ルーキーイヤーからシェフの付き人のようにどこへでも付いて行っていましたが、半年間は名前で呼ばれたことがなかったんです。いつも「君」って呼ばれて。でも、ある日賄いで作ったボンゴレを「いいね!」と気に入ってくださり、それ以来名前を呼んでもらえるようになりました。

上を目指して成長したなら、
次の世代に伝えていくのが大事。

──藤本さんは「ステラ・マリス」で、どんな思い出がありますか?

藤本:自分もたくさんありすぎて、なかなか絞りきれませんね。

吉野:私が2002年の秋頃からパリと日本を行き来するようになってからは、副料理長の彼にパリの責任者として店を任せていたんです。

藤本:当時は忙しすぎたこともあり、一生懸命こなしていくことが第一でしたね。でも、日本とは使う食材が違っていたので楽しかったですね。

──日本と異なる食材に触れられたのがよい経験になったと?

藤本:そうです。「ステラ・マリス」に届く食材はいいものばかり。それらを自分が中心になって触れるという経験は、なかなかできるものではありません。厳しくも恵まれた環境があったからこそ、今こうしてたくさんの人が活躍できているのだと思いますね。

小松めぐみ=インタビュー 田中英代=構成 宇都木 章=撮影 

本記事は雑誌料理王国2018年6月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2018年6月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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