明治時代、それはマカロニからはじまった。〜中篇〜


黒船来航を皮切りに長い鎖国の眠りから目覚めた日本には、文明開化の名のもとに、西洋各国の食文化が雪崩のようにどっと押し寄せた。といってもそれらはまだ、誰も口にしたことのない未知の味ばかり。

「天皇陛下が4つ足の肉料理を召し上がった」という事実が大ニュースになった時代、当時は作る方も食べる方も必死だったに違いない。
そんな西洋料理の黎明期に日本人が初めて出合ったイタリア料理は、“マカロニ”と呼ばれるパスタだった。これはその、“マカロニ”と人々のお話。

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フランス人宣教師と村人が作った、初の国産マカロニ

一方、日本初の国産マカロニを辿ると、商品化第一号は大正12(1912)年。新潟県賀茂郡の石附吉治が横浜の貿易商に頼まれて開発した「穴あきうどん」だ。だが、実はそれよりずっと以前に、日本人は手製のマカロニを販売していたのだ。

 マカロニ作りを指導したのは、フランス人宣教師マルコ・マリー・ド・ロ神父。1879年、長崎県黒崎村出津の里(現長崎市西出津町)に赴任した神父は、村人の貧しい暮らしを向上させるべく、私財で故郷フランスから優良小麦の種や畑仕事に使う道具類、さらにはマカロニ製造機も購入して取り寄せ、出津の人とともに小麦畑を耕して収穫し、水車を作って粉を挽き、それを用いてパンを焼いたりマカロニを作ったりしていたのだ。岩崎京子著『ド・ロ神父と出津の娘達』には、神父や信者が残した資料を元に、マカロニ作りの現場の様子が詳しく再現されていて、想像を掻き立てられる。

ド・ロ神父は、仕事部屋の台所でマカロニつくりを実演して見せた。白いムギ粉を、水車小屋の武造が運んできた。「ヤエ、こねばち、持ってきてくだされ。」神父は鉢の中にムギ粉をいれると、「タッケン、こねなされ。ヤエ、鉢をおさえなされ。」といった。武造は、やけに力をいれてぐいぐいこねた。…中略…「おんがくにの人、マカロニ、だいすき。だから屋敷のコック、よくつくっていました。」「フランスの食べもんですか。パーテルさま。」「ノン、本当はイタリアのもの。こねる水もナポリの水、一番いいといいました。マカロニの職人、わざわざナポリにくみにいきました。」…中略…武造がせっせとこねるので、だんだんすき通り、きめがこまかくなりこはく色になってきた。パンの時より念がいって、神父は、「もっとこねなされ、タッケン。中のクウキ、ぬきなされ。」と何度もいった。神父は、武造のこねたものを機械に入れ、レバーを押した。底の穴からうどんのようなひもの房がするするとたれさがった。「ひやあ。」娘たちは思わず叫ぶので、神父もうれしくてたまらない。底の穴には仕掛けがあって、そこを通って出てくる時、たてにさけ目があるが、すぐに両端がまるまってふさがり、管状になった。これを一メートルの長さに切って、外の日なたにもっていく。二時間ぐらいさっと干し外側が乾くと、今度は四、五日間、日かげに干してできあがりであった。  

ド・ロさまそうめんと長崎スパゲッチー
ド・ロ神父が出津の人々に伝えた製麺技術は、途絶えては復活して出津の人々に受け継がれ、現在も「ド・ロさまそうめん」として残っている。また、手延べ製法の「長崎スパゲッチー」(350 円)、手延べで出るふしを集めた「ふしパスタ」(200 円)は、当時のマカロニの記録や村の方々の話を元に、長崎の食品メーカー・株式会社サンフリードが現代の工夫を加えて復刻した商品。日本人が好むモチモチの食感に寄せた、1.8~2.2㎜の太麺パスタだ。

 フランスから輸入した小麦の種類は残念ながら分からないが、もしや硬質小麦だったのではないか。というのも、記録によると「出来上がったマカロニはしこっと硬い食感で、当時の日本人にはなじまず、長崎の居留地に住む外国人に売っていた」からだ。その代わり、日本人向けには手延べの素麺を作った。また、1メートルの長さのマカロニというのも面白い。この部分を「ホスタリア・エル・カンピドイオ」の𠮷川敏明シェフに読んでいただいたところ、𠮷川シェフがイタリアで働いていた1960年代後半でも、マカロニは1メートル超の長さに成型された後、竿にかけて乾燥され、U字型で60㎝位の長さの箱に入り、使うときには手で折っていたそう。確かに、明治の文献ではマカロニは切って使うという表記が多く、私たちが知る短いものは、ずっと後に生まれたのだと分かる。実際、出津でも5㎝程に切って使ったらしいが、見慣れないから灯明用のローソクと間違われたりした、と記録にある。なんと、ローソク!

西洋式の衣食住技術を教えた ド・ロ神父
1840 年、フランス北部のノルマンディー貴族の家に生まれたマルコ・マリー・ド・ロ神父は、パリ外国宣教会で学び、 1868 年に宣教師として来日。長崎、横浜に赴任し、修道院の建設やリトグラフで日本初の本を刊行するなどしたのち、 1879 年、長崎県黒崎村出津教会の司祭となる。その後 1914 年に亡くなるまで、生涯を出津の人々と共に過ごした。フランスで身につけた農業や印刷、医療、土木建築などの技術を出津の人々に教え、織布や織物、素麺・マカロニ・パンの製造など多彩な事業を授けることで自立する力を与えた。ともに教会や救助院などを建て、畑を耕し、生涯「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれた。また施設建設や事業に掛かる費用には、私財を惜しみなく投じた。

「明治時代、それはマカロニからはじまった。〜後篇〜」に続く


文・料理/馬田草織 編集者・ポルトガル料理研究家。食文化の歴史を紐解く取材が得意。最新刊はポルトガルの現代食文化を訪ね歩いた『ムイトボン!ポルトガルを食べる旅』(産業編集センター)

参考文献
『小麦粉の食文化史』(岡田哲著・朝倉書店)、『長崎の西洋料理』(越中哲也著・第一法規)、『パスタでたどるイタリア史』(池上俊一著・岩波ジュニア文庫)、『ある明治の福祉像 ド・ロ神父の生涯』(片岡弥吉著・NHK ブックス)、『ド・ロ神父と出津の娘達』(岩崎京子著・女子パウロ会)、『本邦初の洋食屋 自由亭と草野丈吉』(永松実著・えぬ編集室)、『食道楽』(村井弦斎著・岩波文庫)

本記事は雑誌料理王国2020年8・9月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2020年8・9月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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