明治時代、それはマカロニからはじまった。〜後篇〜


黒船来航を皮切りに長い鎖国の眠りから目覚めた日本には、文明開化の名のもとに、西洋各国の食文化が雪崩のようにどっと押し寄せた。といってもそれらはまだ、誰も口にしたことのない未知の味ばかり。

「天皇陛下が4つ足の肉料理を召し上がった」という事実が大ニュースになった時代、当時は作る方も食べる方も必死だったに違いない。
そんな西洋料理の黎明期に日本人が初めて出合ったイタリア料理は、“マカロニ”と呼ばれるパスタだった。これはその、“マカロニ”と人々のお話。

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日本人シェフがイタリアの皇族に作った“マカロニソーフ”

 では、日本人シェフがイタリア料理を作った記録はあるのか。これが、あるのだ。明治12(1879)年8月12日、東洋を巡遊していたイタリア皇族ゼノア公が長崎を訪れたときの公式晩餐会のメニューに、“マカロニソーフ”という料理名がある。料理を担当したのは、当時長崎、大阪、京都、神戸に西洋料理店兼ホテル「自由亭」を構え、多くの要人に料理を提供していた草野丈吉。丈吉は、開国前の長崎出島でオランダ人の下で修業した西洋料理人の魁であり、実業家でもあった。この当時既に西洋料理の知識が豊富だった丈吉は、イタリアの客人をもてなすには、マカロニが最適と考えたのだろう。それにしても、ソーフ……。これは何だろう。スープやソースの類なのか。もはや確認のしようがないが、これがマカロニの料理であることは間違いない。当時のイタリア皇族一行は、このマカロニソーフにどんな感想を持ったのだろう。

明治の“マカロニ”調理法

 時代が進み明治の後半に入ると、マカロニの食べ方もぐっとこなれてくる。1904(明治37)年刊行の村井弦斎著『食道楽』は、 600種を超える料理を語った小説。読者は一般人だ。この中のチース料理という項目に“マカロニチース”が出てくる。
「バター一杯を溶かしてメリケン粉一杯を杓子でかき回しながらよくいためて牛乳一合ばかりを注して塩胡椒を加えて白ソースを作ります」

 これは、ベシャメルソースだろう。
「別に鍋の中へ焦付かないように竹の皮を敷いて湯を入れて一寸ばかりに切ったマカロニを一時間ほど湯煮て、湯から揚げて今の白ソースの中へ入れて長いマカロニ六本振りならチースを大匙二杯ばかり山葵卸しで卸しながら加えておよそ三、四十分位い弱い火にして煮込み…」

 竹の皮を敷き(マカロニが溶けてくっつくのを防ぐ為らしい)、1時間(!)茹でたマカロニを、ベシャメルソースで煮る。チーズは専用卸しの代わりに山椒卸しで削っていた様子。

「…中略……深い皿へでも最初にマカロニを一側並べて別にチースを大匙一杯卸して入れてまたマカロニを入れてチースを加えて三段にも四段にもこうして、一番上へチースを卸しかけてテンピの中で二十分焼きます」

 ベシャメルで煮たマカロニとチーズとを何段にも重ね、仕上げにもチーズをかけ天火(オーブン)で焼く。要は溶けたチーズやソースがふつふつ踊る、私達も知るマカロニグラタンだ。この本は、料理上手なお登和嬢という女性が周囲の人に料理を教える体裁なのだが、聞いた相手が「一度煮たマカロニをまた白いソースで煮るのは手間が掛かり過ぎるから、煮たらすぐオーブンで焼いたらダメか」と聞くと、「不親切な料理人はそうするけど味に大層違いが出る、そもそも牛乳で煮たり蒸したりするものは…」とたしなめている。作ってみたいけど大変そうだと感じる読者を先回りして、作者の村井弦斎が料理蘊蓄とも言える解説を入れているのだ。当時から、日本人は理屈や蘊蓄が好きだった証しとも言えよう。
 さらに主人公は「これは大層美味しいもので初めて食べる人でも決してチースを嫌いません」と語り、当時チーズが苦手な日本人が多かったことが想像できるとともに、弦斎もマカロニグラタンはうまいと感じていたことが伝わってくる。

 話をマカロニに戻そう。“マカロニーは素麺と訳す”が“マカロニチースは大層おいしい”と言われるまで約30年、さらに100年以上経つ現在では、マカロニグラタンはもはや日本の家庭料理の定番だ。私も子どもにリクエストされるので、家でよく作る。そんな現代の食の様子を、聞いて、作って、書き記すをひたすら繰り返し、必死で西洋料理を学んだ黎明期の先人達が見たら。きっと、驚きながらも喜んでくれるのではないだろうか。どうだろう。

『食道楽』冬の巻口絵
大隈伯邸花壇室内食卓真景(水野年方画)。著者の村井弦斎は、妻の親戚で食道楽を自任する大隈重信とも懇意だった。この絵は、大隈自邸の温室で開かれた食事会の様子。

西洋料理人の魁、草野丈吉
1840 年長崎生まれ。20 歳頃、出島のオランダ総領事に雇われてボーイやコックの仕事を始める。江戸、横浜、函館など領事に随行しながら日本各地を巡り、内外の要人との会食の場で、日々西洋料理を学ぶ。1863(文久3)年、薩摩藩の五代友厚にすすめられて、長崎に日本初の西洋料理店「良林亭(のちの自由亭)」を開店。最初こそ自宅を改装した六畳一間だったが、本格的な料理内容はすぐに認められ、事業を拡大し関西へ進出。大阪、京都、神戸に西洋料理・外国人ホテル「自由亭」を開き、欧米の王国貴族や政治家など、要人をもてなすプロとして幕末・明治の西洋料理黎明期に活躍。1886(明治19)年47 歳で病没。


文・料理/馬田草織 編集者・ポルトガル料理研究家。食文化の歴史を紐解く取材が得意。最新刊はポルトガルの現代食文化を訪ね歩いた『ムイトボン!ポルトガルを食べる旅』(産業編集センター)

参考文献
『小麦粉の食文化史』(岡田哲著・朝倉書店)、『長崎の西洋料理』(越中哲也著・第一法規)、『パスタでたどるイタリア史』(池上俊一著・岩波ジュニア文庫)、『ある明治の福祉像 ド・ロ神父の生涯』(片岡弥吉著・NHK ブックス)、『ド・ロ神父と出津の娘達』(岩崎京子著・女子パウロ会)、『本邦初の洋食屋 自由亭と草野丈吉』(永松実著・えぬ編集室)、『食道楽』(村井弦斎著・岩波文庫)

本記事は雑誌料理王国2020年8・9月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2020年8・9月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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