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日本のイタリアンの歴史Part1 (文明開化~戦後まで)


1868年、維新政府は江戸を東京と改め、年号を明治と改元して、富国強兵を目指して欧米化を推進した。銀座にはガス灯がともり、レンガ造りの建物が出現。「西洋料理屋」も登場した。イタリアン草創期をひも解くにはこの「西洋料理」がキーワード。当時はイタリア料理やフランス料理などの区別もなく、全て「西洋料理」だったからだ。

明治時代の西洋料理とはフランス料理のことだった

 当時も今も、欧米の上流階級の正餐はフランス料理だ。明治政府が公式な場での正餐は「フランス式に」と定めたこともあり、横浜や築地の外国人居留区にある来賓用のホテルのレストランでは、フランス料理を出していた。つまり、明治期の日本では「西洋料理=フランス料理」だった、と言ってほぼ間違いない。

 それでは、イタリアの料理は日本ににまったくなかったのか、というとそそうでもない。

 そもそもフランス料理の基礎は世紀、フィレンツェを支配していたメディチ家の娘カトリーヌ・ド・メディシスが、後にフランス国王となるアンリ2世に嫁いだ際に伝えたイタリア料理にあるといわれる。

19世紀末から20世紀初期のフランス料理界の重鎮オーギュスト・エスコフィエのレシピ集『Le Guide Culinaire』(1902年刊)にも、マカロニ入りのグラタンや、肉や魚料理の付け合わせのパスタ(マカロニ)など、パスタを使った料理がいくつも存在している。こうしたことから、日本とイタリア料理の出会いは、明治期のフランス料理にあった、とも言えるのではないだろうか。

マカロニは、明治初期に早くも紹介されていた
 明治初頭、実はこの頃すでに日本に「マカロニ」がいち早く紹介されている。それは1872(明治5)年に刊行されたふたつの料理書『西洋料理指南』(敬学堂主人著)と『西洋料理通』(仮名垣魯文著)に見ることができる。『西洋料理指南』にはマカロニを牛肉とチーズで煮込むと書かれてあり、日本にまだなかったマカロニを「うどんを切って代用する」ようにと紹介している。また、『西洋料理通』では「索麺汁(マカロニスープ)」が説明されている。ここではマカロニを索麺と訳しているが、これ以外にも当時はさまざまな訳があり、穴あきうどん、管通麺、管状そうめん等々。さらにはスパゲッティーなどのロングパスタを指すと思われる西洋そうめん、西洋うどん、などという訳もあり、パスタはすべてひっくるめて「マカロニ」と呼ばれていたようである。

日本初のイタリア料理店のシェフは曲馬団の賄い方

 築地「精養軒」や九段上「富士見亭」など、文明開化の象徴とされた西洋料理店も基本はフランス料理を出した。1889(明治22)年に、三田・慶應大学前に創業した「東洋軒」は天皇陛下の料理番や、宮中晩餐会の出張料理などを担った〝正統派西洋料理店〞で、この店は1895年に、イタリアから日本にパスタを持ち込んだ最初の店といわれている。ただし、パスタといっても当時の料理人には、イタリア料理という認識はなく、その料理も、ラビオリやマカロニを使ってベシャメルソースで仕上げるフランス料理と考えて調理していたのだろう。

三重・津 東洋軒
三重県津市丸の内29-17
059-225-2882

東洋軒としては、1950(昭和25)年に暖簾分けで独立した津支店のみが残る。暖簾分け当時にあった「マカロニグラタン」を再現。

81年に新潟で開店した西洋料理店「イタリア軒」は、フランスの曲馬団の賄い方だったピエトロ・ミリオーレが、興行中に病に倒れ、帰国できなくなったために、県令の援助を受けて開いた店。「新潟の鹿鳴館」と称され、日本初のイタリア料理店とされる。メニューは一体どんなものだったのか? 当時をうかがわせるものはないが、伝聞によると「牛肉や乳製品、油を持ち込み、干し肉も使っていた」という。

新潟 ホテルイタリア軒
新潟市中央区西堀通7番町1574
025-224-5111

イタリア軒は現在ホテルとして営業。館内にあるレストラン「ビストロ マルコポーロ」でミリオーレから受け継ぐ味を楽しめる。1920(大正9)年のレシピには、すでに「ボロニア風ミートソーススパゲティ」が。

 ミリオーレは北イタリア出身。故郷には「カルネ・セッカ」と呼ばれる干し肉があり、チーズや加工肉なども豊富。生まれ育った街を思い浮かべながら、故郷の料理をメニューに入れていたとしたら……。一般の日本人がイタリア料理と出会った最初、といわれる由縁である。

 ともあれ「イタリア軒」は日本初のイタリア料理店として全国に知られ、各地から料理人が修業にやって来た。ミリオーレのなかにあったイタリア料理のエッセンスを吸収し、彼の帰国(1912年)後も多くのイタリア料理人が巣立っていった。

戦後、イタリア人によるイタリア料理店が登場

 1944(昭和19)年、イタリア軍艦カリテア号が神戸港に寄港した。しかし、入港中にイタリアが連合国に降伏し、乗組員は日本側の捕虜となった。彼らはすぐ開放され、多くはイタリアへ帰国したが、一部の乗組員は日本に残った。そのなかにいたのが艦の料理長カンチェミ・アントニオと乗組員ジョゼッペ・ドンナロイヤ、オラツィオ・アベーラだった。彼らは日本の女性と結婚し、イタリア料理店を開いた。それが神戸の「アントニオ」(44年)と「ドンナロイヤ」(52年)、宝塚の「アモーレ・アベーラ」(46年)である。「アントニオ」は、神戸から東京・南青山へ移転し、東京でオペラ歌手藤原義江に絶賛されたことで人気に火が付いた。「ドンナロイヤ」は、神戸の外国人居留地に店を開き、日本に滞在する外国人たちを相手に、彼らの社交場として賑わった。

「アクアパッツア」の日髙良実氏によると、カリテア号の乗組員で日本に残った人物がもうひとりいたという。その人物とはルイジ・フィダンサー。船では下働きの身だったが、日本に残り「リストランテハナダ」に入り料理人になった。日髙氏は「イタリアのマンマの味。いい加減に見えたけど、おいしさと温かみがあった」と、その味を振り返る。

 時代の偶然が生んだイタリアンの伝道師たち。彼らによって本物のイタリア料理が日本に登場したが「、日本人によるイタリア料理店」の誕生にはもう少し時間が必要だった。

南青山 アントニオ南青山店
東京都港区南青山7-3-6
03-3797-0388

トマトソースのラビオリ。アントニオ氏は日本のトマトの水煮を煮詰めたり、オリーブオイルで炒めたりして使っていたという。

神戸・三宮ドンナロイヤ
兵庫県神戸市中央区加納町2-5-1 神戸滋慶ビル地階
078-261-9291

ジョゼッペ氏の自慢料理にして、現在も1番人気のフェットチーネ。

アメリカ経由のイタリアンからの脱却

54年、まだ〝東京租界〞と呼ばれていた六本木に「シシリア」がオープンし、「日本のイタリアン」はようやく幕を開ける。

当時の六本木は、すでに銀座赤坂のホステスが闊歩する夜の街だった。店の閉店後、上客を連れて六本木へ流れるホステスたち。さらには「六本木族」と呼ばれる金持ちの道楽息子たちや、都心で唯一六本木にあった米軍基地宿舎から繰り出すアメリカ人など、六本木は〝日本最高の不良〞たちが集まるブルジョア的な街だった。「シシリア」のピザは飛ぶように売れた。そのピザは、横浜本牧の「イタリアンガーデン」で元潜水艦乗りだったイタリア人料理人から習った、四角形のピザだった。

六本木 シシリア
東京都港区六本木6-1-26 六本木天城ビルB1F
03-3405-4653

ピッツァパイは今も店の定番メニューである。

 しかし、これはイタリアのピザとはほど遠いものだった。「トマトソース、タバスコ、粉チーズ」を中心に焼かれた「アメリカ経由のイタリア料理」。戦後日本を象徴する〝アメリカの味〞だったのだ。

 こうしたなか、60年、ヨーロッパ的なコンセプトの店がようやく登場する。飯倉片町に現れた「キャンティ」である。オーナーは川添浩史・梶子夫妻。フランスに8年住んだ川添氏は明治の元勲・後藤象二郎の孫で、イタリアに8年いた夫人の梶子さんは彫刻家エミリオ・グレコの弟子でもあった。

川添夫妻が目指したのは、パリのサンジェルマン・デ・プレにあった文化サロン「カフェ・ドゥ・マゴ」のような店だった。「キャンティ」には三島由紀夫や安部公房が通い、フランク・シナトラやマーロン・ブランドらが立ち寄った。
料理も本格的だった。たとえばパスタ。巷にはナポリタンやミートソースしかない時代に、スパゲッティ・バジリコを定番料理に据えていた。当時、バジリコは流通していなかったので、梶子夫人が自宅で栽培したものを使った。メインディッシュにはオッソブーコやオックステールの煮込みなど。どの皿にも梶子夫人のこだわりが感じられた。まさに日本人による初の本格イタリア料理店は、華やかな社交場となった。

こうして、徐々に70年代以降に日本に咲き誇ることになるイタリアンの萌芽が生れたのである。

六本木 キャンティ
東京都港区麻布台3-1-7
03-3583-7546

スパゲッティ・バジリコはキャンティの定番。


Cuisine Kingdom = 文

本記事は雑誌料理王国第219号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は第219号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。


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